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有珠山ジオパークツアー その10  三松正夫の昭和新山

昭和新山を訪れた際、なにか人物の像が立っているのが目につきました。

 

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こちらです。近づいてみましょう

 

 

 

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なにやら望遠鏡のようなものを覗いていますね。

これは昭和新山の観測に尽力した、三松正夫の像。

 

 

今回のお話をする前に、「火山科学館」のところで「1944年噴火の際に事前避難ができた」と記載した所を訂正いたします。

実際には、当時、戦争状況の悪化もあり人心が混乱することを恐れた政府により、情報のいくつかは伏せられた、とのこと。1944年の噴火時の避難状況などはわかりませんでしたが、調べた限り、窒息で死亡した幼児一人が死亡した、とのこと。

 

なぜこの場で訂正を行ったか、というと、今回、お話しする三松正夫と深い関係がありまして。

皆さん、昭和新山が誕生する際、近所の郵便局長によって毎日、その様子が観測されていた、というお話を聞いたかとがあるかと思います。

自分も昭和新山の話を聞いた時に初めて知りました。小学校の修学旅行の時です。

その際は、バスガイドさんに「地元の郵便局長さんによって、昭和新山は観測されました」と聞き、「へーそうなんだ」で終わっていました。 で、この年に至るまで、昭和新山は郵便屋さんに観測された、ということは覚えているものの、大したことないだろう、くらいの認識でした。まあ、物好きなオジサンもいるもんだ、くらい。

 

ところが今回、ブログ記事のために調べてみたところ、その「物好きなオジサン」が、想像以上に過酷な思いをしながら、そして精密な準備の下、観測を行っていたことを知り、さらには戦時下の情勢が観測を阻んでいたことを知り、そしてその功績の大きさも知るに及んで、見方が一変してしまいました。

あの時、あの場所に、「物好きなオジサン」こと、三松正夫さんがいなければ、どうなっていただろうか?

今回は、三松正夫さんについてお話ししてみます。

 

 

三松正夫は明治21年(1888年)、伊達市に生まれました。

彼は 若いころから画家になることを志していた、とのこと。結局、後に画家の夢は断念することになりますが、その時に培われた画力は、昭和新山の日々のスケッチ記録に生かされることになります。

明治44年(1910年)、彼の人生に大きな影響を与える出来事が起こります。

有珠山の大噴火、いわゆる明治噴火です。

この時の噴火は、地元の人によって経験的に予測されていました。

その調査のため、東京帝国大学の大森房吉教授が洞爺湖を訪れます。
三松正夫は、その調査の助手と道案内を務めました。

この時の経験から、三松は火山学に興味を持ち始めた、とのこと。

また大森教授は、三松に生涯を左右することになる、以下の言葉を残します。

「火山噴火に遭遇した者の責務は、その時にあったことの詳細を客観的、科学的に観察し、次期噴火の防災に資する事である」

「火山を科学しようとする者にとって、噴火の時こそが千載一遇のチャンスであり、その機を失すると生涯再びその火山の噴火に出会えるかわからない」

 

まさにその後の三松正夫の人生を暗示するような言葉。

これ以降、三松は火山について、科学的な目を向けるようになった、とのこと。

 

そして噴火活動の終焉後の大正7年(1917年)、三松は洞爺湖の湖岸に43℃の温泉の源泉を発見!

三松らは北海道庁から利用許可を得て、洞爺湖温泉の第一号温泉旅館「竜湖館」を開業!

なんと三松正夫は、洞爺湖温泉の発見者であり、そして温泉ホテルを最初に始めた人でした。

 

その後、月日は流れ、三松正夫は虻田町の郵便局長になっていました。

そして昭和18年(1943年)12月28日、有珠山周辺で有感地震が発生。

三松はすぐに大森教授からの言葉を思い出したらしく、地震の発生とともに有珠山が活動を開始したと本能的に察知したそうです。

ただちに現場に急行し、現地での状況から火山活動の再開を確信した三松は、すぐに火山学者の知人たちに連絡を取った、とのこと。三松は1910年以降も独自に火山学を学んでいたらしく、火山学者の知人も増えていたそうです。

さて、いち早く火山学者に連絡したものの、当時は戦時下。

当時の風潮として、戦争に役立つ学問の研究が優先されていたため、東京の火山学者たちは北海道に行くことができませんでした。さらには軍部や官憲は、戦況の悪化もあってこれ以上、住民の不安が高まることを恐れていたため、火山活動に関する現象を極秘にすることにばかり奔走していました。

当時、誰も火山活動に持とうとしなかったどころか、無かったことにしようとする空気さえ流れていました。

しかし、三松正夫の心の中には、1910年の噴火時に大森教授から受けた言葉が深く刻まれていました。

彼はなんと、単独で、独自にに観測をすることを決意します。

 

三松は観察を開始、詳細を報告書にまとめて日本各地の火山学者に送り、それを解析した火山学者の指示に従って次なる観測を行う、という困難な作業を続けました。

三松は地震の中心と地面の隆起を丹念に調べ、時系列に沿った、詳細な亀裂・断層の分布図を独自に作成。この図には、ある一点から亀裂が放射状に延びていることがわかります。

また、上記の踏査から、現在、昭和新山のある、当時は平野であった東九万坪地域に地震と地殻活動が集中していることに注目。ここに新火山が誕生することを予測し、勤務している虻田郵便局の裏を定点として、毎日、連続スケッチを描き始めます。この定点スケッチは全く独創的な方法で行われました。「顎を台に乗せて固定し、水平に張った糸を基準に日々の形状変化」を、なんと「ハンドトレスで行った」とのこと。
かつて画家を目指していた時の技術が生かされました。

ちなみに地震の回数は、皿の上に置いた豆の振動で観測したそうです。

この記録は非常に精密でした。そして不可となってしまった専門家による調査の欠落を補ってあまりあるものとなります。

1944年6月23日、分布図に記された放射状の断層の中心点から噴火が始まりました。

これをきっかけに噴火活動が活発化。次々と新しい火口が誕生していきます。

そしてなんと、三松正夫は新しい火口が発見されるたび、大変な危険をおかして現地に自らの足で向かい、新しい火口の位置、径、深さなどを観測。

信じられますか?

いまだ活発な噴火が起こっている地域に乗り込んでいくなんて。

火山を観測する、という強力な信念が無ければ実行できません。なお、この行為は絶対にマネしてはいけません。

三松正夫は、実地に観測を続ける中、噴火にリズムがあることを体得していました。

なおこのとき、近郊の伊達に1人だけ東京から火山科学者ややってきていました。東京帝国大学の水上武教授です。

水上教授は7月11日の噴火を伊達から観測した際、火砕流の発生を指摘しましたが、戦時下の住民に動揺を与えることを恐れた官憲により、伏せられました。
この事は後世に大きな影響を与えました。

この時、熱雲(火砕流)発生の事実が伏せられてしまったために、1977年の噴火の際に防災に生かすことができませんでした。

この時の模様も三松正夫は記録し、写真も撮影していましたが、その時の記録を1990年の雲仙普賢岳の噴火の際の記録と照らし合わせたところ、 この日の現象が極めて危険な火砕サージであったことがわかりました。

雲仙普賢岳の噴火の際、多くの犠牲者があったことは、記憶にあるところ。

 

さて、一連の火山活動は1944年10月30日の噴火を持って終息したのですが、なぜか地震が活発になっていった、とのこと。これを不審に思った三松正夫は調査のための危険を伴う登山を繰り返します。

そして火口群が丸く並んでいるのを確認し、その中心が固まった溶岩が隆起し始めているのを発見しました。

溶岩は毎日、成長を続け、終戦直後の1945年9月20日、海抜407mに達したところで活動を終息しました。

三松正夫は9月20日の翌日、30cmの沈降を確認したことで、火山活動の終息を確信したそうです。

火山活動の開始から、その終息まで、科学的な考察、知識に基づいて行われました。
つまり三松正夫の観測は、すべて彼の予測通りのシナリオを描いていた、と言えます。

 

郵便局の裏側から毎日、物好きだったり野次馬気分でスケッチしていたのではありません。

いつ、どこから噴火するのか、精密に推測されていました。

そして昭和新山は、スケッチした場所に偶然現れたのではなく、科学的考察のもと、あらかじめ「ここに新山ができる」と確信されていたのでした。

 

若いころの火山学の第一人者との出会い、その後の三松正夫の科学的な探究心、そして画家を志したほどの絵画の技術。

どれか一つでも欠落していたならば、1943年の有珠山噴火は戦時下の事情と隠匿を図った政府によって、全く記録が残されていなかったかもしれません。

この時、この地に、この人がいたこと。天の配剤としか思えないですね。

 

三松正夫はその後、毎日続けたスケッチの稜線のみをまとめて「昭和新山隆起図」としました。

さらに活動開始から終息までの記録をまとめ、起きた現象を時系列にまとめました。

これら2点の記録は1948年に、ノルウェーのオスロで開かれた万国火山会議において提出されました。

 

各国の代表者は、この記録に驚きました。
敗戦国の日本の、さらに僻地において、新火山の誕生の様子がこのように詳細に記録され、しかもそれが素人の手で作られたことに驚嘆しました。

そして敬意を込めて、これら2点の記録に対し「ミマツグラム」という特別な名称が与えられることが決定され、ミマツの名前は世界の火山学史に永久に記録されることになりました。

 

その後、三松正夫は昭和新山を我が子として愛していました。そして硫黄の採取などによる荒廃を懸念し、1947年、私財を投入してこの土地を購入。

その後は天然記念物への申請など、昭和新山の保護に尽力し、1957年に「特別天然記念物」に指定されました。

彼は終生、昭和新山を愛し続けました。

 

そして昭和52年(1977年)、有珠山の1977年噴火が続く中、亡くなりました。

有珠山とともにあった一生ですね。

 

 

平成5年(1993年)12月、1943年噴火から50周年を記念して、冒頭でご紹介した三松正夫の像が立てられました。

 

 

 

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昭和新山と三松正夫の像は、分かつことのできない存在であるとわかります。

 

 

世界的な「アマチュア」火山研究者、三松正夫に最大限の敬意を表します。