審美歯科

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☆函館関連★ ペルリ提督、函館に上陸す! その2  松前勘解由について

翌4月23日、前日も上陸していた副官のベンテ、通訳官ウイリアムスが再び上陸し、山田屋屋敷を訪問。

条文の解釈の相違によるいくつかのイザコザはあったものの、双方ともに状況を理解。
ちなみにこの時のイザコザとは、アメリカ側が要求した「家屋2,3軒の提供」に関することでした。
松前側はこれを通訳の不備により「役所や提督官邸の要求」と誤解。さらに宿泊先として提供を求めた寺院についても、アメリカ側があくまでも一時の宿泊所として要求したのに対し、松前側は寺院を占有して「異教」を普及しようとしているのではないか、と警戒。異教とは、すなわちキリスト教。中世において。確かにキリスト教の布教と西洋の植民地拡大は呼応していたのは事実。
これに対しアメリカ側は、あくまでも宿泊施設としての提供を要請した事、寺院での宿泊については日本の国民的信仰を妨げる意図の無いこと、などを説明。これにてようやく両者の警戒が緩和されました。

さて、記録では、この時、アメリカは上記のように宿泊所を要求した、となっていますが、水面下ではそれ以上の要求をしていたのではないか、と推測されます。
その後のペリーと松前藩との交渉を見ると、条約外のことを急いで認めさせよう、というアメリカ側の姿勢を見て取れます。
そのため、すでにこの時から、ペリーは大きな要求を行い、松前藩が警戒した、と考えられます。

 

アメリカ側を(一応)信頼した松前藩は、後刻、松前藩公の一族であり重鎮である松前勘解由がペリー提督を訪問することを伝え、これを了承したアメリカ側は一端、帰還します。

 

 

ここで登場した松前勘解由ですが、非常に優秀な人物であったらしく、後でふれますがこの時からのアメリカとの交渉において、のらりくらりとした態度を見せつつ、チクリとアメリカ側の非をつつく、など行い、アメリカ側を適度に苛立たせつつも過度な態度をさせない、というしたたかさを見せます。
この時の勘解由の交渉は後に幕府においても「松前勘解由のこんにゃく問答」として有名になり、幕閣も高く評価。アメリカ接待の功績に対する褒美として、なんと将軍・徳川家定より御紋付時服を賜ることになります。さらには松前藩の名を高めたことから藩主・松前崇広からは刀を賜ります。

この功績により松前藩内における勘解由の名声は高まり、この後、家老、老中を歴任。ついには筆頭家老にまで上り詰め、大きな権力を手に入れます。その権力を元に、藩主の後継にまで影響力を及ぼします。
非常に優秀であった勘解由はあらゆる藩政を取りしきり、しかも明晰に迅速に裁断していきました。

そして大政奉還後、勘解由は得意の交渉術を発揮します。
藩主名代を上洛させたり新政府側に資金を提供するなど、新政府寄りの姿勢を見せつつも奥羽越列藩同盟にも家老を派遣するなど日和見外交を実施。老獪さによって幕末を乗り切ろうとします。

しかし松前藩内の尊王派は不満を高め、「正義隊」を結成。密かに箱館の新政府役人に連絡をとって連携し、一方で家老を脅迫して藩主・松前徳広に謁見。徳広に佐幕派の一層と勤王を建白し、体の弱い徳広はこれを採用します。
これを元に正義隊は勘解由を筆頭とした佐幕派重臣を襲撃。勘解由は切腹させられます。
こうして新政府側に移行した松前藩ですが、後に土方歳三の軍勢に討伐されてしまいます。

なんだか大きな遠回りとなってしまいましたが、ペリー接見の際の重要人物、松前勘解由について説明してみました。