審美歯科

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☆函館関連★ ペルリ提督、函館に上陸す! その1 

函館の世界地図における重要性と、「幕末の完結」の場面をお話しました。

日本の大きな歴史的転換点となった戊辰戦争は、箱館戦争をもって終結。

「旧幕府派」は、函館を最後の舞台として歴史から去っていきます。

以上のように、函館は「江戸時代、最後の場所」でありますが、もう一方の意味も忘れてはいけません。

前回の記事を「時代が始まり、終わる街」といたしましたが、函館は江戸時代が終わった場所であると同時に、日本の新たな歴史の扉が開かれた街、でもあります。

今回は、まさに新時代が始まろうとしていた函館のお話しです。

 

 

 

 

 

 

嘉永六年(1853年)6月3日、浦賀沖に、4隻の蒸気船が現れます。

それまで見たことの無い機械仕掛けの巨大な船に、住民は驚きます。
艦隊を率いるアメリカ、東インド艦隊司令長官、マシュー・ペリーは、アメリカ大統領からの日本開国命令のもと、大型蒸気軍艦サスケハナ号を中心とする艦隊にて現れます。

浦賀に入港し、大統領からの書簡を将軍へ渡すことを要求します。

その返答を待っている間、ペリーは艦隊を江戸湾・羽田沖に進め、空砲をとどろかせて幕府を威嚇。
戦艦や搭載されている大砲の大きさに圧倒された幕府は、抗戦をあきらめ、ひたすら時間の引き伸ばしを図るようになります。
ペリーは一年後の再来を告げて浦賀を後にしました。
日本が新たな時代へと突入する、大きな出来事。

「巨大な機械仕掛けの船」によって日本人の大きな衝撃を与えると同時に、否応なしに時代が変わっていることを実感させました。

 

その後、将軍である徳川家慶の死を香港で知ったペリーは、政権交代に伴う幕府の混乱を好機ととらえ、一年後の再来、という約束を反故にして半年後の安政元年(1854年)1月に再び日本にやってきました。

ペリーは前回の訪問の際に要求した「通商」「漂流民の保護、救助」「避難港の確保と石炭・薪水などの補給」のほかに、日本の港を開放することを強く要求。
約一か月の交渉の後、幕府はアメリカの要求を全て受け入れることを決断し、安政元年(1854年)3月3日、日米和親条約が締結されます。
それにより下田は即日、開港され、函館は翌年(1855年)3月に開港されることが決定されます。

条約締結に成功したペリーは、すぐさま下田を後にし、函館へと向かいました。

 

 

日本史の教科書でも知名度の高い人物、ペリー提督。

学生時代、教科書に載っているペリー提督の顔に、ちょび髭を描いた人も多いかと思います。

日本では「新時代を開いた人物」とされる超有名人、ペリー提督が、実は函館にやってきていた!

果たして開拓黎明期の北海道にて、ペリーは何を見たのでしょうか?

今回は北の地にて行われた、もう一つの「開国交渉」のお話です。

 

 

 

 

 

函館に向け、下田を出発したペリー艦隊。

下田から函館までの所要時間はわずか4日。当時、日本では箱館と江戸との移動に夏では30日、冬では37日を要していました。

さて、当時、松前藩の管轄となっていた箱館には、入港の15日前に幕府より連絡がありました。

幕府相手に終始、高圧的であったという異国の船団が箱館にやってくる、との知らせに松前藩は震撼とします。

この時の松前藩の動揺はかなり大きかった、とのこと。

松前藩では急遽、家老・松前勘解由、用人・遠藤又座衛門ら、藩の要人を応接役として箱館に派遣し、さらに軍勢の一隊も差し向けます。

さらに箱館住人に対し、ペリー艦隊との接触を禁じた18か条のお触れを出します。

その中で「アメリカ人は欲深く短気であるため、外国船停泊中は婦女子の外出を禁ず」とし、さらには「婦女は山へ避難させる」ことを命じています。
他に、

「牛、酒、呉服、小間物その他大切なものはアメリカ人の目に触れないようにする」
「異国船の見物禁止、海に面した戸や障子にも目張りをする」
「アメリカ人が何かを見て欲しがったら、逆らわずに与える事」

などを布告しています。

さらに松前藩は、なんと箱館港の周囲をぐるりと高さ2メートルの板塀で囲み、海から市中を見えないようにし、アメリカ人と住人との接触を避けようとしました。

 

そして1854年4月15日、アメリカ船が箱館港に入港。
港内からの測量を開始しました。

この時、アメリカは小舟から測量していたのですが、その内の一隻が上陸しそうになったので、藩士がすぐさま駆けつけて、手の仕草にて上陸を制止すると小舟は沖に移動しました。
その後、小舟は沖の口役所のある場所へ接近、今度は制止を振り切って強引に上陸してしまいます。
仕方なく役所へと案内することに。

この時のアメリカ側に着座するように促したところ、直に座ることを嫌がっていて、椅子を要求。これまた仕方なく机に布をかけて急ごしらえの椅子を用意。お菓子や茶、煙草などでもてなした、とのこと。
その後、筆談にて要件を問いただすと、アメリカ側はどうやら食料の提供を求めている様子。承知との回答をすると、アメリカ一行は平穏に帰って行った、とのこと。

しかしこれを機にアメリカ側の無断上陸が頻繁におきます。

七重浜に上陸したアメリカ兵が引き網漁をはじめたり、小銃にて鳥を打ったりしたために藩士が制止するも無視。他にも酒を要求したり、寺院に入って博打をしたり、と一部での狼藉も散見されました。

そんな中、松前藩士は手薄な人数で警備に忙殺されます。
そして4月21日にはペリーの乗船するポータハン号も入港。

即日、松前藩の奉行が船でポータハン号に接触。
ペリー側は横浜で幕府役人に手渡された箱館当局向けの書簡を提示しますが、奉行は通訳が不在であることを理由に受け取りを拒否。

ここで重大な事実が発覚します。

松前藩は事前に幕府よりペリーの入港を知らされていて、薪水・石炭の補給に応じよ、とは通達されていましたが、日米和親条約が締結されていたことやその内容は一切知らされていませんでした。

そのためペリーらは、条約文を読み、下田で認められたことを説明する羽目になりました。

 

そして翌4月22日、ついにアメリカ側は函館に上陸します。しかしペリーはまだ上陸していません。

この時、箱館に上陸したのは提督副官ベンテ、主計官ヒリ、司画官ホロンらのほか、通訳として3人(英語通訳、和蘭語通訳、中国語通訳)の計6人。

箱館市街にある豪商、山田屋寿兵衛の屋敷にて、ペリーと松前藩役人との会見が行われました。

松前藩側は箱館奉行・工藤茂五郎、町奉行・石塚官三、応接方として3名が、接見に臨みました。

この時、アメリカ側から横浜で締結された約定などを説明したものの、松前藩側は幕府から条約の事を聞いていないこと、幕府からの応接担当の幕僚も来ていないこと、などを理由に上陸を認めません。
松前藩側の役人に、これに関する決定権は与えられていなかったため、致し方ないことではありました。

ペリーは帰国後、公式な報告書をアメリカ政府に提出します。これは後に「ペルリ提督日本遠征記」として出版、邦訳されています。

その「遠征記」の中ではこの日の会見についても言及されています。

一部を覗いてみると

「アメリカ人達は例の如き形式張った儀礼で迎えられて、日本室にありきたりの設備をした立派な広間に着席するや、すぐに事務を行う用意が整えられた。奉行は中年の男で甚だ慈悲深い表情をし、独特の穏和さと鄭重な態度とをもっていた。同伴の二人は上役の面前で卑屈だったが、矢張り甚だ立派な日本紳士であった。」

「従者が茶・菓子・糠菓・煙草をもって屡(しば)々出入し、又奉行と同僚の二人とは決して主人側としての務めを忘れず、絶えず鄭重に賓客達へ茶菓をすすめてくれた。」

と、この日の応対に当たった役人について記述しています。

仕方なくこの日の接見では、明朝9時までに松前側は回答することを約束して解散となりました。

会見を終えたアメリカ一行は、帰路にて箱館市街を見物して回ったそうです。

同じく「遠征記」によると

「この館(やかた、注・山田屋宅)の側の小路を通り抜けると(中略)、この通りは二十フィートないしそれ以上の幅で、一部は割石の舗道で挨は丁度掃かれておった。(中略) 私どもが通った時には通りの両側に、人々は幾列にもなってひざまついていた。店も家もすべて戸を閉めていたが、これは全然私どものせいではなく、彼らを暖かくするためらしかった。のべつに紙張窓の続いているのは、通りを陰うつにしていた。家は皆、通りに向って入口があった。この入口の背後に、地上から三十フィートの屋根の端に切妻が立っていた。家根はぎっしりと丸石がのせられ、各棟木には内に火叩きをいれた水槽が備えていて、これは道路の他の水槽と共に防火用であった。群衆の中には一人も女や子どもは見られなかったし、大した人数でもなく騒々しくもなかった。」

その後、一行は役人や住人の民家に案内され、2,3の民家で歓待を受け、喜んで艦船に戻ったとのこと。

 

続きます。