審美歯科

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歯科・小児歯科
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☆旭川関連★「北京」建設計画とは?

北海道の開拓のお話が出たついでに、旭川と網走についてもお話しします。

不凍港、太平洋への玄関を求めて南下するロシア。

迫りくる欧米列強の脅威に対し、新政府はどのように対峙したか。

北海道各地の開拓に関する場所を見ると、知ることができます。

開国間もない日本の緊張状態を体感しましょう!!

 

 

 

日本の首都は東京。東の京、と書きます。これは、幕末まで天皇が過ごしていた京都から東に位置していることに由来しているのはみなさんご存知。当時、東京を「東の京」、京都を「西の京」、奈良を「南の京」としていました。そして、残る「北の京」の建設計画が、北海道にて企画されていました。
なぜ、そのような国家プロジェクトが、北海道にて計画されたのでしょうか?

時は明治時代。
明治政府は、旭川に離宮、すなわち皇室の居所を設け、そして、旭川を「北京」として整備することを決定しました。

当時、立憲君主国として法治国家の歩みを始めたばかりの日本ではありますが、皇室の居所は最重要地を意味していました。また、長い日本史に置いて、天皇が京都から東京に居所をうつしただけでも前代未聞の出来事。その上に最果ての地に居所を設ける、というのは、異例とも言えます。

なぜ、旭川がそのような重要地に選ばれたのか。

開国したものの、当時の日本は欧米列強の脅威にさらされていました。お隣の大国、清王朝は列強に浸食され、東南アジアも次々と植民地に組み込まれている情勢。 日本の独立は、風前のともし火にすぎません。
そして、列強の一角、帝政ロシアが南下をはじめていました。日本は周辺地域にてロシアと利害が対立。当時、ロシアを仮想敵国として警戒していました。
そのような中で本格化するロシアの極東地域での領土拡大の動き。
当時、北海道は正式に日本領に組み込まれてから日が浅く、植民地主義が支配する国際情勢の下では、必ずしも日本の領土という国際的認識が確立されているわけではありません。

そのため、明治政府は旭川に離宮を設け、天皇が在住する「北京」とすることで、北海道の日本領有を世界に宣言しようとしました。確かにかなり直接的なアピールになります。

その時、皇室御料地として接収されたのが、今の東神楽町と旭川市の西神楽地区を合わせた地域。地図で確認してみていただくとわかりますが、かなり広大な土地が皇室御料地として用意されたのでした。

そして、その御料地を守護するかのように、その北側にすべての機能を兼ね備えた、国内でも大規模な基地を設けました。

旭川市は自衛隊の町でもあります。人口比率でも自衛隊関係の仕事に従事する人が多く、歯科助手さんでも予備自衛官をされている方がいるなど、生活のそばに自衛隊の存在がうかがえます。現在でも旭川には大きな自衛隊基地がありますが、建設当時はこの数倍の敷地面積だったとのこと。

市内を流れる石狩川には、旭川の象徴ともいえる「旭橋」が架かっています。鋼鉄でできたその姿は、頑丈そのもの。太い鋼鉄が曲げられ、整然とボルトが打ち据えられている様は、スチームパンクアニメの世界観を連想させます。
この旭橋は、戦車が通ることを想定して建設されました。旭川はまさに「軍事都市」として整備されたのでした。

旭川の場所を地図で確認してみましょう。確かに北海道の中央に位置しています。稚内や留萌、札幌、網走、帯広から等距離の場所にあります。
ちなみに、日高山脈を横断する石勝線はまだ開通していなかったため(石狩と十勝を結ぶ新狩勝トンネルは、1966年開通)、根室、釧路、帯広から札幌へ向かうには旭川を経由する必要があり、当時の旭川は北海道の交通の要所でもありました。

その後、皇太子(後の大正天皇)が離宮予定地を視察するなど、計画は進められたものの、政府の財政難や、中心都市の地位を旭川に奪われることを危惧した札幌の要人による反対などのため、「北京」計画は白紙撤回されます。

そして、接収された土地は民間に払い下げられました。その後、この地域には皇室に縁のある地名が付けられ、今でもその名残を見ることができます。(「御料」などの名前が散見される)

もし、この「北京」計画が実現していれば、今頃、北海道の中心都市は旭川となって、北海道の重心も北に移動していたことでしょう。
今度、旭川を訪れた際には、かつての国家プロジェクト跡を訪れてみてください。離宮が計画された場所は、今は上川神社となっています。

今回は、旭川に住んでいた時に見た公共の刊行物などを参考にしました。