審美歯科

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北海道の2つの「最先端機関」  その1 函館 諸術調所

一見、未開の地、辺境の地に思える幕末・明治期の北海道ですが、実は違います。

日本で最初に開港した函館、新政府の総力を挙げて開拓が行われた札幌。

この2都市には当時の「最先端」の技術・知識が集まり、実地に活かされていました。

今回は、開国直後に北海道に存在した、2つの「最先端機関」のお話しです。

 

 

 

1854年3月31日、「日米和親条約」が締結。鎖国体制下にあった日本は、ついに開国しました。

そして最初の開港地に選ばれたのが函館と下田。
これ以降、函館にはイギリスやロシアなど、様々な異国人が集まるようになります。

彼らは西洋の先進的な技術、知識を持っていました。つまり当時の函館には、日本のどこよりも最先端の知識・技術が集積していたのでした。

そこで幕府は箱館奉行に、箱館に来航した外国人から技術・知識を学び、蝦夷地開拓や先進的な人材の育成を行う事ための学問所である「諸術調所」の設置を命じました。

そして教授には、蘭学者にして博識の誉れ高い武田斐三郎が就任します。

武田斐三郎は当時、「蘭学の儀は当時有数比類なく、且漢学にも長じ、志気慷慨、天稟非常の才器」とされていたほどの才人。若いころに多くの人材を輩出した緒方洪庵や佐久間象山の下で学び、詩文などの文才を心得、医学も修め、オランダ語、英語、フランス語に精通していました。その才を認められ、後に機械製造、弾薬製造を学び、艦船の製造、砲台の築造法を会得したばかりか、器具製造、金属分析術にもその才を伸ばすほどの「異才」の人でした。

まさに明治時代の天才!後には五稜郭の設計を担当し、新政府の科学技術の第一人者となるのですが、なんでか現代ではマイナーな扱い。

ともかく、武田斐三郎は、この諸術調所の科目を一人で担当することになったのでした。

 

これと同時期、幕府は江戸に蕃書調所(後の東京大学)を開設し、洋学の研究を開始していたのですが、この蕃書調所が語学、数学、画学などの理論を重視していたのに対し、函館の諸術調所では測量、航海、造船、砲術、築城、科学、蘭学など、実践的な知識・技術の研究・習得をメインとしていました。

この諸術調所に対し、外野では「実用に適さないのでは?」と揶揄する者もありました。

教授の武田はその声を聞くや、諸術調所での研究が実践的であることを証明すべく、門下生、学生を率いて2度の航海を決行。特に2度目の亀田丸による航海ではロシア領のニコライエフスクに寄港して実際に交易し、さらには諸術調所で学んだ技術を生かして中国東北部の黒竜江省の精密な測量を行い、天文、地理や測量術、その他の西洋の先進的な器具の製造法を生徒たちに見学させ、十分すぎる成果と共に箱館に寄港。実践結果を示すことで外野のヤジを封じました。

また文久2年(1862年)には幕府が招請した2人のアメリカの地質学者から治金法や採鉱法などを学び、生徒も二人のアメリカ人の講義を受けました。

 

当時の日本ではこのような先進的な航海術が学べるところは箱館と長崎以外には存在せず、また異国の学問・技術を、異国人から学べる少ない場所、ということで、諸術調所には入所希望者が殺到しました。

また諸術調所の入所は、幕士、藩士を問わず、公私貴賤の別なく人物本位、試験重視の能力本位としたため、本州各地から幅広い人材が集まりました。

 

榎本武揚、前島密(日本の郵便制度の生みの親)、井上勝(日本の鉄道の創設者)、吉原重俊(日本銀行総裁)など、新時代を担う人材を次々に輩出します。また後に同志社大学を創設することになる新島襄も諸術調所への入所を希望しますが、織り悪く武田が不在であったため、入所は敵いませんでした。

 

 

このように当時の日本の「最先端」研究教育機関であった箱館の諸術調所ですが、1864年に武田が幕命により江戸の蕃書調所の教授となった後は自然消滅してしまいました。

 

当時の箱館は、日本で最も先進的な場所であったのでした。