審美歯科

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北海道の2つの「最先端機関」 その2 札幌農学校と台湾

今回の記事は、4年前に掲載した記事を補足したものとなっております。あしからず。

 

 

 

州の人が北海道を訪れた際にがっかりする「北海道3大がっかり」という言葉が、昔から知られています。

「3大」といいつつも、実は定まっていません。赤レンガ道庁であったり、宗谷岬であったり、小清水原生花園であったり。よくあげられるうちの一つに「襟裳岬」があります。本州からの旅行者の方が言うには「何にもない」とのこと。でもそれは間違っています。歌手の森シンイチさんだって言っているじゃないですか。「〽襟裳の~ 春わぁ~ 何も~ 無い~ 春ですぅ~」って。
それはともかく、この3大がっかりは、旅行者の方の心象が反映されるようですね。しかし、その中で、誰もが挙げる、強力なビッグネームがあります。皆さんご存知「札幌時計台」です。

もう、10人の本州からの旅行者がいたら、10人とも挙げるのではないでしょうか。
院長の学生時代にも、本州出身の学生は、時計台には総じてがっかりしていました。皆さん言うには「もっと壮大なものかと思っていた」とのこと。どこかのとても広い草原に、時計の大きな建物が建っている様を想像していたようです。しかし、現実には、ビルの間に挟まれた2階建ての建物。時計といえば屋根に突起のようについている小さい丸時計のみ。
なるほど、全く違いますね。

でも、時計台にまつわる歴史を知ると、見方も変わってきます。

時計台の正式名称は「旧札幌農学校演武場」。札幌農学校は今の北海道大学のこと。時計台は札幌農学校の体育館として使用されていたのでした。でも、そこで行われていたのは、ただの体育の授業ではありませんでした。

札幌農学校と言えば思い浮かぶのはクラーク博士。「ボーイズビー アンビシャス」の言葉は全国的に有名ですね。

このクラーク博士、「博士」なんて後ろに付くから知識人のような印象を受けますが、実は、アメリカ南北戦争の最激戦区にて指揮を執っていた司令官。北軍に属し、少佐の階級に位置していた、まさにたたき上げの軍人でした。

彼が来道した際、奇しくも日本では西南戦争の真っ最中。

クラーク博士は、自身の司令官としての経験から、日本においても戦闘の指揮を執ることができる司令官の育成が必要と痛感、この方針の下、札幌農学校のカリキュラムを組んだのでした。(意外にもクラーク博士は植物学等には暗かったらしい)
彼は授業に英語を取り入れ、体を鍛えるべく、現在の時計台である演舞場にて、生徒に軍事訓練に近い授業を行っていました。

彼の授業は、当時の他の各帝国大学よりも先進的であったらしく、「クラークイズム」の下に学んだ2期生の新渡戸稲造は、札幌農学校卒業後に東京帝国大学に入学したところ、あまりのレベルの低さに失望してしまった、とのこと。(当時、札幌農学校は、台湾大学と同じく、正式には大学の扱いをされていなかった)

ちなみに、札幌農学校からは新渡戸稲造の他に、内村鑑三、広井勇、宮部金吾、志賀重昴(地理学者、衆院議員)などを輩出。特に彼らの語学能力が高く買われ、国際派として政府の要職に登用されていきます。

 

 そして開拓地である北海道にある札幌農学校では、「植民地学」が実践され、北海道各地から「実践結果」が集まり、分析・考察され、それらの知識が蓄積されていきました。札幌農学校が北海道の開拓の中心、開拓最前線の研究機関となっていました。

 植民地主義が支配する19世紀の世界では国際的に「植民地学」が重視されており、クラーク以後もアメリカ人の教授を招請した札幌農学校は、当時の日本における植民地学の「最先端」機関となっていました。

 

 そして札幌農学校で得られた知識、技術、ノウハウは、後に台湾の開発に生かされることになります。

 台湾を「植民地」というとなんともイメージが悪いですが、当時の日本にとって、台湾の統治をおろそかにしたり、収奪的に行うわけにはいきませんでした。

 地図をご覧いただくと、台湾は北海道と同じく、日本列島の端っこにあります。そして台湾の先には欧米列強に浸食されつつある清王朝が。それは北海道の先にロシアが接している状況と同じ。台湾の編入によって、日本は列強の脅威を間近に受けることとなります。

 そのため、ロシアへの脅威に対するために北海道の開拓を急いだのと同じく、明治政府は台湾を一刻も早く開発し、内地化する必要に迫られていました。当時、日本本土からは、北海道と台湾は同一視されていたようです。

 北海道の開拓経験が移入された台湾統治はその後、黒字となります。収奪を目的とした欧米型の植民地統治とは性質が異なっていました。

時計台は、そんなクラークが目指した教育方針の現れの一つ。

全国の皆さん、時計台はただ「時計がある場所」ではありません。この建物もまた、「開国直後の日本の針路」を示す象徴的な建物です。歴史的背景とともに眺めてみると、建物から19世紀の日本の鼓動が聞こえてくる、はず?

 

 

 

追記

今回の記事に合わせ、「日本歴史」に掲載されていた札幌農学校と台湾開発に関する論文をご紹介しようと思ったのですが、なんとその号を紛失してしまい、記憶にある内容をお話ししました。

その論文を読んだ時、自分は驚いたのと同時に、台湾に対して親近感を持ってしまいました。

 

北海道が完全に日本領と認識されている現代の考えでは、北海道と台湾との繋がりなんて考えつきにくいですが、19世紀の世界ではどうだったのでしょうか?

「本土」から見れば、北海道も台湾もどちらも「未開の地」もしくは「外地」と思われていたのでは?その先には欧米列強の脅威が見えていたのでは?そして北海道は欧米諸国のような「植民地」であったのだろうか?
その「日本歴史」の記事を読んで以来、北海道の開拓の歴史を知ることで、台湾の近現代の歴史を理解することができるのでは?と思うようになりました。

北海道と台湾は、ある意味、兄弟のようなものなのかもしれませんね。

台湾の皆さん、北海道来訪の際は、ぜひ時計台に寄ってみて下さい。なぜか懐かしく感じるかもしれない。

 

 

追記の追記

前述した札幌農学校と台湾開発に関する論文が掲載されていた「日本歴史」2014年4月号がみつかりました。

井上将文氏執筆の「東郷実の農業植民論 ~自給排他の植民思想~」と題された論文です。

この論文は札幌農学校を卒業し、台湾総督府官吏となった東郷実が提唱した「農業植民論」についての研究成果が述べられているものです。内容については皆さんでご判断いただくとして、ここではその中で触れられている札幌農学校と台湾総督府との関係について簡単にご紹介いたします。

論文の第一章にて、東郷実が台湾総督府に従事するようになった経緯が述べられているのですが、当時、台湾総督府の民生局長であった後藤新平が、札幌農学校出身の新渡戸稲造を台湾総督府に迎えるために熱烈な説得を行い、招請に成功したことから、台湾総督府において札幌農学校出身者が重用されるようになっていった、とのこと。東郷実が抜擢されたのも、彼が札幌農学校出身であったことが理由で、台湾総督府に就職する札幌農学校卒業生が増えていたそうです。

後藤系は札幌農学校を、台湾の植民事業に当たらせるための人材供給地として重視していたと思われる、とのこと。

 

やはり北海道の開拓の経験が、台湾開発に生かされていたようです。