審美歯科

診療案内

診療科目:
歯科・小児歯科
診療時間:
月・火・木・金
9:30〜19:30
土・日
9:30〜18:00
休診日:
水曜・祝日
お電話:
011-669-8211
所在地:
札幌市西区西野5条3丁目7-1
[map]

日本の狭軌鉄道と一人の政治家(2015年5月11日掲載)

ついでに、言っては失礼ですが、「日本歴史」に掲載されていた、日本の狭軌鉄道に関する記事をご紹介。

北海道にも広軌鉄道が実現した今、井上勝は如何に思うのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

今回は鉄道のお話をしようと思います。

以前、幕末のハワイとの交渉を掲載いたしましたが、それは院長が定期購読している「日本歴史」の論文を基になっております。その「日本歴史」の「2015年2月号」に、鉄道好きにはなかなか興味深い記事が載っておりました。

老川慶喜氏による「井上勝の広軌改築論と整備新幹線」と題された論文です。

日本の線路は国際的に主流の「広軌」ではなく「狭軌」が採用されていることは、鉄ちゃん以外でもご存知の通り。また、その理由も「日本は欧州と比べて土地が狭く、急峻なため、狭軌の方が適しているため」と広く知られています。

確かに開国直後の日本において、狭軌鉄道の方が適している部分が非常に多かったようです。

しかしその後、何度も広軌への改築の意見が出されていましたが、その都度、却下されています。

そこにはある明治維新の「元勲」である人物の存在がありました。ちょっとお話ししてみます。

 

1869年12月、明治政府は朝議(「朝」の感じが異なります。ご了承ください)において「東京~京都間の幹線」、「東京~横浜間」、「京都~大阪~神戸間」、「琵琶湖近傍~敦賀間」を1067ミリの狭軌道にて敷き設することを決定。

この決定には「日本の鉄道の父」とされる、長州藩出身の井上勝が深くかかわっていました。

井上勝という人物ですが、いわゆる「長州ファイブ」の一人とされる人物。この長州ファイブには伊藤博文も挙げられており、幕末の重要な役割を果たしていました。

そしてこの時、井上勝は鉄道庁長官に就任。以降、開国時の鉄道行政において、絶大な影響力を及ぼします。なお余談ですが、小野義真、岩崎弥之助らとともに「小岩井農場」を設立した人でもあります。

 

さてお話戻って、その井上勝はこのとき「我が国の如き山河多く、又屈折甚だしき地形に在りては1067ミリゲージを適当とす」と判断。イギリスなどの1435ミリのゲージでは「過大に失して不経済」であり、「今の国内情勢では広軌で100里を作るよりは狭軌で130里を作った方が、国利が多い」と、民部兼大蔵大輔の大隈重信に進言しています。

つまり、開国直後の当時、各種産業が目覚ましく西洋化され成長していました。それとともに物流の需要も増大。政府は、とにかく鉄道を敷設し、物流を改善することが必要とされていました。

井上は、18年後の1887年にこの時の判断について述懐していますが、その中でも、狭軌鉄道を採用したのは日本の急峻な地形や経済発展の遅れを考えての事であって、鉄道の延長を優先し、速力などは次善の策と考えた、と語っています。

つまり急激な経済発展に追いつくためには建設に何かと時間のかかる広軌よりも、速度などで劣るが比較的に簡便に建設できる狭軌が当時の状況に最適であった、と。

 

この判断は、当時としては正しいものであったと思われます。欧米列強に一日でも早く追いつきたい世相に合致していました。

 

問題はここから。

 

その後、開国直後の経済発展からひと段落した段階と思われるころに、雨宮敬次郎が「日本の鉄道を広軌に改築せねばならぬ」と考えました。

この雨宮敬次郎という人物ですが、江戸時代に生まれました。甲斐国の百姓の次男という出自ながらその後、商才を発揮して成人までに巨大な富を築き、開国後に行った洋行(アメリカ、ヨーロッパの旅行)で社会基盤の必要性を痛感し、製粉工場や鉄道事業に進出します。「天下の雨宮」とまで称されるほどになった人物。

なお、明治22年(1889年)には北海道炭礦鉄道の取り締まり役となります。ちなみに北海道炭礦鉄道が当時所有していた「手宮~札幌~三笠」の鉄道路線は、日本で3番目に敷設された路線です。

 

さて、そんな大金持ちの雨宮は、500万円で1000マイルの全鉄道を広軌に改築する、という計画を立てます。このころはまだ、すでに敷設されている狭軌を広軌に変更することも可能な範囲であったと思われます。

雨宮は華族を中心に出資を募ると多くの賛同を得ることができました。そこでいよいよ本腰を入れ、まず陸軍に掛け合って補給利子を得る事の同意を得ることに成功。話が固まり始めた段階で井上勝の同意を得ようとしたところ、「井上は頑として応じなかった」とのこと。

こうして最初の広軌への改築計画は無に帰します。

 

その後、日本は日清戦争に突入。戦時の体制が強まるにつれ、狭軌鉄道による輸送力不足が指摘されるようになり、井上は批判の矢面に立たされます。

井上は1895年11月に「東洋経済新報」に談話を発表します。その中で井上は

「鉄道導入時に日本の経済が今日のように発展するとはだれも思わなかったので、狭軌道を導入したのはやむを得なかった」と述べました。

じゃあ、ここで広軌への変更を考えているのか、というとそうでもなく、

「狭軌道のままでも複線化によって輸送力の強化は図れるし、二条の鉄軌を三条にしたり、客貨車の車輪部を改修したりすれば、実質的に広軌改築を実現し、輸送力を増強することもできる」と主張しています。

ここでもまだ、狭軌道の存続に執着しています。

 

しかしここから、井上は狭軌を強硬に存続させることに疑問を持ち始めたようです。

 

1900年五月、鉄道時報の記者に対し、「鉄道が今日の如く発達するならば、無論、欧米の通り広軌が適当だ」と、初めて広軌道への転換の必要性を語っています。

しかし、同じインタビューにおいて「今日でも鉄道を速成するには、やはり現行のゲージがある意味、適当である」(院長意訳アリ)と語り、輸送力の増強よりも鉄路の延長を優先していました。

鉄道行政に大きな権力を有する井上の考えは、そのまま鉄道行政の方針を表わしていたため、日本の狭軌道を基本とする方針は頑固に持続することとなりました。

 

そして井上が、その考えをはっきりと転換するときがやってきます。

日露戦争後の1906年3月、「鉄道国有法」が制定されると、井上は、

「駕籠(かご)を主要な乗り物としていた時代に、狭軌道を採用したのは止むを得なかった。むしろ狭軌道が批判されるほどに経済が発展した事を喜ぶべきだ」

と開き直りとも取れる発言をして、改めて当時の自分の弁護をしつつも、

「日本でも広軌改築を実行すべきである」と、広軌道への転換を明確に主張するようになりました。

 

井上勝という人物は、決して国際情勢に疎かった人ではありません。開国直後に欧米を見て回り、社会資本の充実を痛感していました。むしろ当時の日本人の中では誰よりも開明的な人であった、と言えます。彼は日本が欧米に一日でも早く追いつくにはどうすべきか、と思案したとき、現実を直視して狭軌道を導入したのでした。

しかし日露戦争後、日本領は急激に拡大(あくまでも日露戦争後、の領土です)。

彼は中国、朝鮮、満州などの大陸の鉄道を見て回り、鉄道輸送の著しい変化や、極東から欧米までレールでつながっているというスケールの壮大さを実感。広軌道への改築の必要を感じたものと思われます。決して、いわゆる「ガラパゴス」な人ではありませんでした。
1909年5月の鉄道時報において、彼はこう語っています。

「ただ慙愧に堪えないことが一つある。我が国に鉄道ができてから四十年になる。その時、なぜゲージを広軌にしておかなかったのか。日清戦役にあの様に勝ち、日露戦役にもあの様に勝ちロシアを満州より追い払うような進歩を我が国に予期していたならば、まさか狭軌にはしておかなかったのにと、余は全く先見の明がなかったことをすこぶる愧じている次第だ」

言葉から感じられる強烈な後悔の念。

ロシアを破って欧米列強に並んだことを日本中が喜んでいた時、彼一人は後悔の想いに苛まされていたようです。

しかしこの時、すでに日本の鉄道網は、狭軌から広軌へ切り替えが容易には行えないほど、張り巡らされていました。もう、手が付けられないほどに。

 

結局、その後も広軌への転換は行われませんでした。

井上の死から54年後、ついに日本において「広軌鉄道」が実現します。

1964年10月、東海道新幹線が開通。

その後、新幹線は延伸を繰り返し、広軌の鉄路は青森から鹿児島までつながっています。
今年4月には北陸にまで広軌道が伸び、来年、ついに北海道も広軌道の鉄道網に加えられます。

 

 

「狭軌鉄道」とは、現在、見ることのできる「開国直後の日本」の姿なのかもしれません。