審美歯科

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☆2016夏の鉄道旅★留萌本線の旅 その12 再び留萌駅にて

さて、時間の都合上、バスで増毛を後にしなければならなかったのですが、この機会を利用して、なんとしてでも留萌本線の「完乗」を成し遂げたい、と考え、バスで増毛から留萌に移動し、留萌から汽車に乗り換えて深川に行く、という、鉄道ファン以外ならまずやろうとしない、面倒なことを企てました。

なお、「完乗」という言葉を使いましたが、自分は一路線を端から端まで乗ること、という意味で使用しましたが、鉄ちゃんによっては「路線にある駅、全てに下車する事」とする人もおられます。さすがに全部の駅に降りる時間なんてありません。おそらく、一泊くらいじゃ難しいのでは?

 

まあ、それはさておき、再び留萌駅にやってきました。

 

 

 

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留萌駅の改札横にあった、「すずらん号」のプレート。

留萌本線を舞台にした作品は、「駅STATION」だけではありません。1999年に放送された朝ドラ「すずらん」も、留萌本線の沿線にある駅を舞台にしていました。

その際、留萌本線では「すずらん号」として蒸気機関車が運行されていました。

「すずらん号」は、放送終了後も毎年、運行されていたのですが、放送から10年を区切りとして、2009年に運行が終了しました。

放送されてから、もうそんなに経つんですね。

 

 

 

 

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いつかまた、復活してほしいですね。限定的でもいいので。

 

 

 

 

 

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これは留萌駅の写真ではなく、近隣のお土産屋さんに入ったときのもの。

写っているのは、留萌のゆるキャラ「KAZUMOちゃん」です。

バナナのキャラクターではありません。「カズノコ」をモチーフとしています。

体の中央で赤いたすきがクロスしていますが、実はカズモちゃんは「一児の母」という設定で、背中にたすきによって、背中に赤ちゃんを背負っているのです。

なんでも、留萌はカズノコの生産量が日本一、とのこと。なんか、地方には結構「日本一」があるもんですね!!もっと地元の「日本一」を探してみよう!!

 

 

再び留萌駅に戻って深川行きの普通列車を待つことに。

その待合室に、昔の留萌本線の様子を写した写真が飾られていました。

 

 

 

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これ、どの駅かわかりますか?なんと最盛期の増毛駅なんです!!!

 

 

 

 

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最盛期の増毛駅と、廃止を目前に控えた増毛駅。

増毛が如何に反映していたのか、わかります。鉄道に注目してみると、その町がどのくらい発展しているのか、わかりますよ。

 

 

 

 

 

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留萌ー増毛間の鉄路の工事の様子。

トンネルを掘ったり、海際を走らせたり、非常に苦労していたのがわかります。そこまでして鉄路を通すだけの価値が、当時の増毛にはあった、という事を物語っていますね。

 

 

 

 

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そして妙に印象深い、一枚の写真に目が留まりました。日の丸が溢れる、白黒写真。駅前に人々が整列していることから、戦争中に、沿線に住む誰かが出征した際の写真かな?と、思っていたら、少し違いました。

 

 

 

 

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よく見ると、中央にいる人たちが、何か白いものを持っています。

注意書きによると、この写真は昭和18年9月30日に、留萌本線にある秩父別駅で撮影された、とのこと。

そして写真には「遺骨の帰還」という名前が添えられていました。

「アッツ島戦没者の遺骨が帰還した時の様子」とのこと。

 

アッツ島は、北海道の北東、アリューシャン列島にある島です。アメリカ領のアラスカまで目と鼻の先の距離の場所。

第二次大戦中の昭和17年(1942年)6月5日に行われた、ミッドウェー海戦の際、日本軍は陽動作戦の一環として、アッツ島と近隣のキスカ島を占領しました。

しかしこのミッドウェー海戦にて日本軍は敗北。アッツ島、キスカ島を占領する意味がなくなってしまったどころか、アメリカ軍がこの方面への反撃の姿勢を見せ始めていたにも関わらず、大本営は戦局が極度に悪化していた南方戦線を重視していたため、アッツ島方面にはなんら対策をとらなかった、とのこと。

徐々に迫るアメリカ軍に対し、アッツ島に残された日本兵は、救援を期待することはできませんでした。

アッツ島、キスカ島にいる日本軍の部隊2650名は、アメリカ軍が両島に向かっている情勢を認識しており、大本営の援助がおこなわれないまま、自分たちだけでアメリカ軍への備えを行わなければなりませんでした。この時の守備隊には、多くの北海道出身者が在籍していたそうです。

アッツ島は一年中、霧か「しけ」の気候のために気持ちも沈鬱になりやすく、またアメリカ軍が徐々に自分たちに近づいているという緊張感も重なり、兵士たちは過剰なストレスを抱える日々を過ごすこととなり、心理面に異常をきたしてしまった兵士も多かったとのこと。

そして1943年になるとアメリカ軍による空襲が始まり、それが徐々に激化。兵士たちは「アメリカ軍の上陸が間近である」と実感せざるを得なくなり、ストレスもさらに高まっていきます。

2月になると山崎保代大佐が守備隊長として着任。

 

そして昭和18年(1943年)5月12日、空母1隻、戦艦3隻、その他付属の艦艇多数、という艦隊の支援とともに、アメリカ軍第七師団1万1千人がアッツ島に上陸を開始。

このアッツ島での戦闘は、戦後、語られることの多い「硫黄島の戦い」に匹敵する、大激戦になったとのこと。

その激戦が行われているさなかの5月18日、大本営ではアッツ島の放棄が決定され、戦闘中の守備隊については事実上の「見殺し」とすることが決まりました。

そして5月23日、札幌の北方軍司令官より、激戦を続ける山崎大佐と守備隊に対し、以下の電報が送られます。

 

「軍は海軍と協同し万策を尽くして人員の救出に務むるも地区隊長以下凡百の手段を講して敵兵員の燼滅を図り最後に至らは潔く玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」

 

現代語ではないので読みづらいのですが、「玉砕」をすすめる内容であることがわかります。

アメリカ軍と絶望的な戦いを続ける中、この電報を受け取った守備隊の兵士たちは、どのように思ったのでしょうか?察するにあまりある。

この後も島のあちこちがアメリカ軍によって突破され、さらには毎日のように艦砲射撃に曝され、食料も尽きはじめていました。生存者は1000人となります。

5月28日までにはほとんどの兵士が亡くなり、陣地も奪われます。ここでどうやら山崎大佐は最後の決断を下した模様です。

5月29日、戦闘不可、歩行不可の重症の兵士が自決。

そして5月30日、山崎大佐は生存者を本部に集合させ、大本営に最後の打電を送ります。

残っていた兵士たちも、この晩が、人生最後の夜になることを覚悟していた様で、当時、守備隊の中にいた辰口信夫曹長の日記もこの日が最後となっています。その最後の記述は以下の通り。

 

「僅かに三十三年の命にして、私は将に死せんとす。但し何等の遺憾なし。天皇陛下万歳。
私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻耐子よ、さようなら。どうかまた会ふ日まで幸福に暮して下さい。ミサコ様、やっと四才になったばかりだが、すくすくと育って呉れ。ムツコ様、貴女は今年二月生れたばかりで父の顔も知らないで気の毒です。○○様、お大事に。○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、さようなら。」(一部省略)

 

 

山崎大佐以下、300名の日本軍は、30日の夜、アメリカ軍陣地に対し、最後の突撃を決行。アメリカ軍が戦慄した「バンザイ・アタック」は、アッツ島でも行われていました。

突撃の結果、アメリカ軍に損害を与えたものの、部隊はほぼ壊滅。アメリカ軍は降伏を勧告しますが、生き残った日本兵はこれを拒否。そして当時の表現での「散華」に至りました。

日本軍の戦死者、実に2638名。生還者はわずか17名。1パーセントにも満たない生存率。

アッツ島への上陸から一年近く、劣悪な気候の島でアメリカ軍の侵攻におびえながら暮らした上での戦死。

 

5月30日、大本営はアッツ島守備隊の全滅を、「玉砕」という表現を用いて発表します。

こうしてアッツ島での戦いは、終了しました。

 

 

そしてアッツ島の激戦から半年経った1943年9月29日、札幌の中島公園にて、アッツ島守備隊将兵の合同慰霊祭が行われた、とのこと。

 

写真の撮影日が1943年9月30日。(詳細は不明、とのこと)

写真にあった「帰還兵」たちは、この慰霊祭の翌日、留萌本線の沿線にある故郷に帰ってくることができたようです。

 

おそらく出征したときも、この秩父別駅から、多くの人の見送りのもと、旅立っていたことと思われます。

 

この写真は出征のために送り出す様子ではなく、遺骨となって帰ってきた方々を迎えたときの様子を写したものでした。

写真にある白い四角は、帰還した方々の御遺骨が納められている御箱のようです。

 

出征の時と同じく留萌本線を通って「帰還」したときも、故郷の駅は暖かく迎えてくれたようですね。

 

写真にある帰還した方々が、いつまでも故郷の地で安らかに眠れること願います。

 

 

 

*2021年3月7日追記
今回の記事は、読まれる方によって解釈が分かれる恐れもあったので掲載すべきか迷いましたが、留萌本線の歴史の一場面であると思い、掲載いたしました。