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極東のイスラエル その1

すんません、実はオホーツク海に関する記事を書いているのですが、長編になってしまってまとまっていません。

その穴埋めとして、今回は地図で見つけた不思議なお話をいたします。

 

 

地図マニアの自分ですが、極東地方の地図を物色中、面白い地名を見つけました。

極東ロシアに「ユダヤ自治州」とあるではないですか!!

 

 

IMG_0149

白地図にて説明するとこちら!!

 

 

 

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この赤い部分ですね。ロシアの沿海地方、もしくは中国の黒竜江省のすぐそば!結構、北海道に近いし!

 

 

で、なんでこんなところにユダヤ人の自治州があるのでしょうか?ユダヤ人とアラブ諸国の国際問題は、遠い地域の出来事、と思っていただけに、不思議に思えて仕方ない。

早速、調べてみました!なお、ユダヤ自治州に関する情報は非常に少なく、ネット情報がメインとなります。

 

 

 

ユダヤ自治州の中心都市は人口8万人のピロビジャン市。ユダヤ自治州全体では19万人が生活しています。

林業、農業などが主な産業で、夏は蒸し暑く、冬は極寒という気候。

なぜここにユダヤ人が住み始めたか、ですが、お話は日露戦争後まで遡ります。

 

日露戦争において勝利した日本は、帝政ロシアの影響下にあった満州における権益を確立。

影響範囲が中国大陸に及ぶとともに、帝政ロシアと長い「国境」を持つに至ります。

 

その後、1914年、第一次世界大戦が勃発。帝政ロシアでは経済状態が悪化し、1917年2月に「2月革命」が勃発してロマノフ王朝が打倒されてロシアにおける帝政が終了します。ロマノフ王朝崩壊後、ロシア国会では臨時政府が樹立され、議会制のブルジョア政権が誕生しました。一方、2月革命でロシア各地において農民、労働者、兵士を中心とした「ソヴィエト」と呼ばれる評議会が結成されます。中央の臨時政府が第一次大戦の継続を主張するのに対し、ソヴィエトは停戦と政治改革を主張。両政権は対立状態となり、ロシア国内は二重権力の状態となります。

この2月革命の直後、スイスに亡命していたレーニンが帰国し、ポリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党の中の多数派。2月革命時点では少数派であった)を指導し、「すべての権力をソヴィエトに」という「4月テーゼ」という路線を打ち出します。

2月革命後も大戦参加を継続する臨時政府に対して民衆の不満が爆発。1917年10月23日、ポリシェヴィキが武装蜂起を開始。10月25日にはペトログラード(現在のサンクトペテルブルグ)にある、臨時政府が根拠地としていた冬宮(ロシア皇帝の冬季の王宮)を占領して臨時政府は倒れ、ポリシェヴィキが主導する「ソヴィエト」へと権力が集中していきます。そしてこれ以降、ロシア内戦が勃発し、それに勝利したポリシェヴィキは史上初の共産主義政権を樹立することとなります。

 

この2月革命はイギリス、フランスをはじめとする連合国陣営を動揺させます。連合国の主要な一国であったロシアにおいて、当時の西洋社会では「資本主義体制の転覆を狙う過激派」とされていたポリシェヴィキによる政権が樹立され、しかも唐突に敵国ドイツと1917年12月に休戦条約を結んでしまいます。

この休戦によってそれまでドイツから見て東方のロシアに振り分けられていた兵力が、イギリス、フランスと対峙する西部戦線に集中する事態が考えられ、東西からドイツを挟み撃ちにする連合国側の戦略そのものが、大きく変わってしまうこととなります。

そこでイギリス・フランスはアメリカ、日本に対し、ロシアのポリシェヴィキ政権を威嚇するために、シベリア方面への出兵を要請します。

当時の日本においても、ロシアで巻き起こる革命の嵐とポリシェヴィキ政権の樹立を座視することができませんでした。日本の権益の及ぶ満州への影響と、日本国内へ共産主義革命が波及することに強い懸念を持っていました。

そこに舞い込んできた英仏からの出兵の要請。

日本は、東シベリアにおいてポリシャヴィキ政権と戦闘状態にあったチェコスロバキア軍の救出、を名目にシベリアへ出兵することを決定。

1918年、同じく英仏の要請を受けたアメリカと日本が「日米連合軍」が結成されました。

しかし「連合軍」とはいうものの、両国の思惑は異なっていました。当時のアメリカもウイルソン大統領はむしろソヴィエト政権に同情的であり、また日本の極東におけるこれ以上の権益の拡大を抑えるためにも、共同出兵することで日本軍の行動を枠内に抑えることを企図していました。

実際、日本陸軍は、この出兵要請を日本の本格的な大陸進出のきっかけとする意図があったようで、アメリカに関係なく、日本が独自に出兵すべきと主張。原敬内閣は軍の暴走を抑えるべく、日米連合軍という枠内での出兵を決めた、という日本国内の情勢もありました。

なお、日本においてこの決定がなされる直前、シベリアへの派兵が行われるであろう、と予想した米商人や地主たちが投機的な意味から米の買い占めに走り、米が高騰。これに富山の女性が「米よこせ」と叫んだことが全国に波及して「米騒動」がおこり、寺内内閣が倒れて原敬内閣が樹立された、といういきさつがあります。

 

お話を戻すと、この日米連合軍には後にフランス、イギリス、カナダ、イタリア、中国も参加し、「多国籍軍」となります。

1918年8月にアメリカ、日本はシベリアへの出兵を宣言。兵力は日本、アメリカがともに1万2千人ずつを派遣することとなります。そして軍事行動の叛意をウラジオストク周辺に限定する、という約束がなされました。

1918年8月2日にウラジオストクに上陸した日本軍でしたが、その後、当初のアメリカとの約束を無視して参謀本部の独断にて軍の増派を決定、実行していきます。最終的にはアメリカが7000人の派遣にとどまったのに対し、日本の兵力は7万2千人にも達します。

この段階でもはや軍部の暴走は止められず、枠内での行動を決定した原敬内閣も、軍の決定を黙認するようになっていきます。

 

ウラジオストク上陸後の日本軍の行動は、救出作戦、とは言えない広い範囲に及びました。

日本軍は各地でバルチザンと呼ばれるゲリラ部隊の攻撃を受け、また極寒の環境にも悩まされながらも沿海州を占領。また満州の鉄道沿いに侵攻し、バイカル湖周辺にまで達します。最終的にはバイカル湖の西のイルクーツクまで到達。ロシア極東地域の広範囲が、一時、日本軍によって占領される事態となります。
ところがここで情勢が大きく変わります。

1918年11月、ドイツ軍が完全に降伏。シベリアの「多国籍軍」の出兵理由も失われてしまいます。その後、干渉軍は一応、極東の反社会主義勢力であるコルチャーク軍支援を目的としますが、その中心人物であるコルチャークも1920年に処刑されてしまい、完全に目的を失います。

そのためイギリス、フランス軍は1919年に極東から相次いで撤退。アメリカ軍も1920年までには撤退します。

しかし日本だけは「事後処理のため」として駐留を続けていました。

その時、「ニコライエフスク事件」が勃発します。

これはアムール川の河口にあるニコライエフスクという町で、遠洋漁業のために滞在していた日本人居留民と日本軍の守備隊の合計700名と日本人以外の現地市民6000人が、バルチザンによって殺害されたうえに町が焼かれてしまった、というもの。

ソヴィエト政権は責任者を追求し、バルチザンの首謀者を処刑しましたが、国際的には「日本軍がロシア側の軍使を殺害したため」と発表します。

そして日本は報復として北樺太を占領。治安維持を維持するため、として軍の駐留を続けることとなります。

 

しかし長引く日本軍のシベリア駐留に、出兵を要請したイギリス、フランスをはじめ、国際的にも「日本の領土的野心」を疑う機運が醸成され、1922年のワシントン会議においてアメリカからの強い圧力を受けることとなり、同年10月に、ようやく日本軍は撤兵します。

しかし北樺太での駐留は続行され、1925年の「日ソ基本条約」の締結まで続けられていました。

 

 

 

こうして日本軍がいなくなった当時のロシアの極東地域。

 

なんとここまでが「ユダヤ自治州」誕生の前提となります。

 

次に続く

 

 

 

 

*なお、シベリア出兵の過程などは不明な点も多いため、異なる可能性があります。あしからず。

日本の狭軌鉄道と一人の政治家(2015年5月11日掲載)

ついでに、言っては失礼ですが、「日本歴史」に掲載されていた、日本の狭軌鉄道に関する記事をご紹介。

北海道にも広軌鉄道が実現した今、井上勝は如何に思うのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

今回は鉄道のお話をしようと思います。

以前、幕末のハワイとの交渉を掲載いたしましたが、それは院長が定期購読している「日本歴史」の論文を基になっております。その「日本歴史」の「2015年2月号」に、鉄道好きにはなかなか興味深い記事が載っておりました。

老川慶喜氏による「井上勝の広軌改築論と整備新幹線」と題された論文です。

日本の線路は国際的に主流の「広軌」ではなく「狭軌」が採用されていることは、鉄ちゃん以外でもご存知の通り。また、その理由も「日本は欧州と比べて土地が狭く、急峻なため、狭軌の方が適しているため」と広く知られています。

確かに開国直後の日本において、狭軌鉄道の方が適している部分が非常に多かったようです。

しかしその後、何度も広軌への改築の意見が出されていましたが、その都度、却下されています。

そこにはある明治維新の「元勲」である人物の存在がありました。ちょっとお話ししてみます。

 

1869年12月、明治政府は朝議(「朝」の感じが異なります。ご了承ください)において「東京~京都間の幹線」、「東京~横浜間」、「京都~大阪~神戸間」、「琵琶湖近傍~敦賀間」を1067ミリの狭軌道にて敷き設することを決定。

この決定には「日本の鉄道の父」とされる、長州藩出身の井上勝が深くかかわっていました。

井上勝という人物ですが、いわゆる「長州ファイブ」の一人とされる人物。この長州ファイブには伊藤博文も挙げられており、幕末の重要な役割を果たしていました。

そしてこの時、井上勝は鉄道庁長官に就任。以降、開国時の鉄道行政において、絶大な影響力を及ぼします。なお余談ですが、小野義真、岩崎弥之助らとともに「小岩井農場」を設立した人でもあります。

 

さてお話戻って、その井上勝はこのとき「我が国の如き山河多く、又屈折甚だしき地形に在りては1067ミリゲージを適当とす」と判断。イギリスなどの1435ミリのゲージでは「過大に失して不経済」であり、「今の国内情勢では広軌で100里を作るよりは狭軌で130里を作った方が、国利が多い」と、民部兼大蔵大輔の大隈重信に進言しています。

つまり、開国直後の当時、各種産業が目覚ましく西洋化され成長していました。それとともに物流の需要も増大。政府は、とにかく鉄道を敷設し、物流を改善することが必要とされていました。

井上は、18年後の1887年にこの時の判断について述懐していますが、その中でも、狭軌鉄道を採用したのは日本の急峻な地形や経済発展の遅れを考えての事であって、鉄道の延長を優先し、速力などは次善の策と考えた、と語っています。

つまり急激な経済発展に追いつくためには建設に何かと時間のかかる広軌よりも、速度などで劣るが比較的に簡便に建設できる狭軌が当時の状況に最適であった、と。

 

この判断は、当時としては正しいものであったと思われます。欧米列強に一日でも早く追いつきたい世相に合致していました。

 

問題はここから。

 

その後、開国直後の経済発展からひと段落した段階と思われるころに、雨宮敬次郎が「日本の鉄道を広軌に改築せねばならぬ」と考えました。

この雨宮敬次郎という人物ですが、江戸時代に生まれました。甲斐国の百姓の次男という出自ながらその後、商才を発揮して成人までに巨大な富を築き、開国後に行った洋行(アメリカ、ヨーロッパの旅行)で社会基盤の必要性を痛感し、製粉工場や鉄道事業に進出します。「天下の雨宮」とまで称されるほどになった人物。

なお、明治22年(1889年)には北海道炭礦鉄道の取り締まり役となります。ちなみに北海道炭礦鉄道が当時所有していた「手宮~札幌~三笠」の鉄道路線は、日本で3番目に敷設された路線です。

 

さて、そんな大金持ちの雨宮は、500万円で1000マイルの全鉄道を広軌に改築する、という計画を立てます。このころはまだ、すでに敷設されている狭軌を広軌に変更することも可能な範囲であったと思われます。

雨宮は華族を中心に出資を募ると多くの賛同を得ることができました。そこでいよいよ本腰を入れ、まず陸軍に掛け合って補給利子を得る事の同意を得ることに成功。話が固まり始めた段階で井上勝の同意を得ようとしたところ、「井上は頑として応じなかった」とのこと。

こうして最初の広軌への改築計画は無に帰します。

 

その後、日本は日清戦争に突入。戦時の体制が強まるにつれ、狭軌鉄道による輸送力不足が指摘されるようになり、井上は批判の矢面に立たされます。

井上は1895年11月に「東洋経済新報」に談話を発表します。その中で井上は

「鉄道導入時に日本の経済が今日のように発展するとはだれも思わなかったので、狭軌道を導入したのはやむを得なかった」と述べました。

じゃあ、ここで広軌への変更を考えているのか、というとそうでもなく、

「狭軌道のままでも複線化によって輸送力の強化は図れるし、二条の鉄軌を三条にしたり、客貨車の車輪部を改修したりすれば、実質的に広軌改築を実現し、輸送力を増強することもできる」と主張しています。

ここでもまだ、狭軌道の存続に執着しています。

 

しかしここから、井上は狭軌を強硬に存続させることに疑問を持ち始めたようです。

 

1900年五月、鉄道時報の記者に対し、「鉄道が今日の如く発達するならば、無論、欧米の通り広軌が適当だ」と、初めて広軌道への転換の必要性を語っています。

しかし、同じインタビューにおいて「今日でも鉄道を速成するには、やはり現行のゲージがある意味、適当である」(院長意訳アリ)と語り、輸送力の増強よりも鉄路の延長を優先していました。

鉄道行政に大きな権力を有する井上の考えは、そのまま鉄道行政の方針を表わしていたため、日本の狭軌道を基本とする方針は頑固に持続することとなりました。

 

そして井上が、その考えをはっきりと転換するときがやってきます。

日露戦争後の1906年3月、「鉄道国有法」が制定されると、井上は、

「駕籠(かご)を主要な乗り物としていた時代に、狭軌道を採用したのは止むを得なかった。むしろ狭軌道が批判されるほどに経済が発展した事を喜ぶべきだ」

と開き直りとも取れる発言をして、改めて当時の自分の弁護をしつつも、

「日本でも広軌改築を実行すべきである」と、広軌道への転換を明確に主張するようになりました。

 

井上勝という人物は、決して国際情勢に疎かった人ではありません。開国直後に欧米を見て回り、社会資本の充実を痛感していました。むしろ当時の日本人の中では誰よりも開明的な人であった、と言えます。彼は日本が欧米に一日でも早く追いつくにはどうすべきか、と思案したとき、現実を直視して狭軌道を導入したのでした。

しかし日露戦争後、日本領は急激に拡大(あくまでも日露戦争後、の領土です)。

彼は中国、朝鮮、満州などの大陸の鉄道を見て回り、鉄道輸送の著しい変化や、極東から欧米までレールでつながっているというスケールの壮大さを実感。広軌道への改築の必要を感じたものと思われます。決して、いわゆる「ガラパゴス」な人ではありませんでした。
1909年5月の鉄道時報において、彼はこう語っています。

「ただ慙愧に堪えないことが一つある。我が国に鉄道ができてから四十年になる。その時、なぜゲージを広軌にしておかなかったのか。日清戦役にあの様に勝ち、日露戦役にもあの様に勝ちロシアを満州より追い払うような進歩を我が国に予期していたならば、まさか狭軌にはしておかなかったのにと、余は全く先見の明がなかったことをすこぶる愧じている次第だ」

言葉から感じられる強烈な後悔の念。

ロシアを破って欧米列強に並んだことを日本中が喜んでいた時、彼一人は後悔の想いに苛まされていたようです。

しかしこの時、すでに日本の鉄道網は、狭軌から広軌へ切り替えが容易には行えないほど、張り巡らされていました。もう、手が付けられないほどに。

 

結局、その後も広軌への転換は行われませんでした。

井上の死から54年後、ついに日本において「広軌鉄道」が実現します。

1964年10月、東海道新幹線が開通。

その後、新幹線は延伸を繰り返し、広軌の鉄路は青森から鹿児島までつながっています。
今年4月には北陸にまで広軌道が伸び、来年、ついに北海道も広軌道の鉄道網に加えられます。

 

 

「狭軌鉄道」とは、現在、見ることのできる「開国直後の日本」の姿なのかもしれません。

北海道の2つの「最先端機関」 その2 札幌農学校と台湾

今回の記事は、4年前に掲載した記事を補足したものとなっております。あしからず。

 

 

 

州の人が北海道を訪れた際にがっかりする「北海道3大がっかり」という言葉が、昔から知られています。

「3大」といいつつも、実は定まっていません。赤レンガ道庁であったり、宗谷岬であったり、小清水原生花園であったり。よくあげられるうちの一つに「襟裳岬」があります。本州からの旅行者の方が言うには「何にもない」とのこと。でもそれは間違っています。歌手の森シンイチさんだって言っているじゃないですか。「〽襟裳の~ 春わぁ~ 何も~ 無い~ 春ですぅ~」って。
それはともかく、この3大がっかりは、旅行者の方の心象が反映されるようですね。しかし、その中で、誰もが挙げる、強力なビッグネームがあります。皆さんご存知「札幌時計台」です。

もう、10人の本州からの旅行者がいたら、10人とも挙げるのではないでしょうか。
院長の学生時代にも、本州出身の学生は、時計台には総じてがっかりしていました。皆さん言うには「もっと壮大なものかと思っていた」とのこと。どこかのとても広い草原に、時計の大きな建物が建っている様を想像していたようです。しかし、現実には、ビルの間に挟まれた2階建ての建物。時計といえば屋根に突起のようについている小さい丸時計のみ。
なるほど、全く違いますね。

でも、時計台にまつわる歴史を知ると、見方も変わってきます。

時計台の正式名称は「旧札幌農学校演武場」。札幌農学校は今の北海道大学のこと。時計台は札幌農学校の体育館として使用されていたのでした。でも、そこで行われていたのは、ただの体育の授業ではありませんでした。

札幌農学校と言えば思い浮かぶのはクラーク博士。「ボーイズビー アンビシャス」の言葉は全国的に有名ですね。

このクラーク博士、「博士」なんて後ろに付くから知識人のような印象を受けますが、実は、アメリカ南北戦争の最激戦区にて指揮を執っていた司令官。北軍に属し、少佐の階級に位置していた、まさにたたき上げの軍人でした。

彼が来道した際、奇しくも日本では西南戦争の真っ最中。

クラーク博士は、自身の司令官としての経験から、日本においても戦闘の指揮を執ることができる司令官の育成が必要と痛感、この方針の下、札幌農学校のカリキュラムを組んだのでした。(意外にもクラーク博士は植物学等には暗かったらしい)
彼は授業に英語を取り入れ、体を鍛えるべく、現在の時計台である演舞場にて、生徒に軍事訓練に近い授業を行っていました。

彼の授業は、当時の他の各帝国大学よりも先進的であったらしく、「クラークイズム」の下に学んだ2期生の新渡戸稲造は、札幌農学校卒業後に東京帝国大学に入学したところ、あまりのレベルの低さに失望してしまった、とのこと。(当時、札幌農学校は、台湾大学と同じく、正式には大学の扱いをされていなかった)

ちなみに、札幌農学校からは新渡戸稲造の他に、内村鑑三、広井勇、宮部金吾、志賀重昴(地理学者、衆院議員)などを輩出。特に彼らの語学能力が高く買われ、国際派として政府の要職に登用されていきます。

 

 そして開拓地である北海道にある札幌農学校では、「植民地学」が実践され、北海道各地から「実践結果」が集まり、分析・考察され、それらの知識が蓄積されていきました。札幌農学校が北海道の開拓の中心、開拓最前線の研究機関となっていました。

 植民地主義が支配する19世紀の世界では国際的に「植民地学」が重視されており、クラーク以後もアメリカ人の教授を招請した札幌農学校は、当時の日本における植民地学の「最先端」機関となっていました。

 

 そして札幌農学校で得られた知識、技術、ノウハウは、後に台湾の開発に生かされることになります。

 台湾を「植民地」というとなんともイメージが悪いですが、当時の日本にとって、台湾の統治をおろそかにしたり、収奪的に行うわけにはいきませんでした。

 地図をご覧いただくと、台湾は北海道と同じく、日本列島の端っこにあります。そして台湾の先には欧米列強に浸食されつつある清王朝が。それは北海道の先にロシアが接している状況と同じ。台湾の編入によって、日本は列強の脅威を間近に受けることとなります。

 そのため、ロシアへの脅威に対するために北海道の開拓を急いだのと同じく、明治政府は台湾を一刻も早く開発し、内地化する必要に迫られていました。当時、日本本土からは、北海道と台湾は同一視されていたようです。

 北海道の開拓経験が移入された台湾統治はその後、黒字となります。収奪を目的とした欧米型の植民地統治とは性質が異なっていました。

時計台は、そんなクラークが目指した教育方針の現れの一つ。

全国の皆さん、時計台はただ「時計がある場所」ではありません。この建物もまた、「開国直後の日本の針路」を示す象徴的な建物です。歴史的背景とともに眺めてみると、建物から19世紀の日本の鼓動が聞こえてくる、はず?

 

 

 

追記

今回の記事に合わせ、「日本歴史」に掲載されていた札幌農学校と台湾開発に関する論文をご紹介しようと思ったのですが、なんとその号を紛失してしまい、記憶にある内容をお話ししました。

その論文を読んだ時、自分は驚いたのと同時に、台湾に対して親近感を持ってしまいました。

 

北海道が完全に日本領と認識されている現代の考えでは、北海道と台湾との繋がりなんて考えつきにくいですが、19世紀の世界ではどうだったのでしょうか?

「本土」から見れば、北海道も台湾もどちらも「未開の地」もしくは「外地」と思われていたのでは?その先には欧米列強の脅威が見えていたのでは?そして北海道は欧米諸国のような「植民地」であったのだろうか?
その「日本歴史」の記事を読んで以来、北海道の開拓の歴史を知ることで、台湾の近現代の歴史を理解することができるのでは?と思うようになりました。

北海道と台湾は、ある意味、兄弟のようなものなのかもしれませんね。

台湾の皆さん、北海道来訪の際は、ぜひ時計台に寄ってみて下さい。なぜか懐かしく感じるかもしれない。

 

 

追記の追記

前述した札幌農学校と台湾開発に関する論文が掲載されていた「日本歴史」2014年4月号がみつかりました。

井上将文氏執筆の「東郷実の農業植民論 ~自給排他の植民思想~」と題された論文です。

この論文は札幌農学校を卒業し、台湾総督府官吏となった東郷実が提唱した「農業植民論」についての研究成果が述べられているものです。内容については皆さんでご判断いただくとして、ここではその中で触れられている札幌農学校と台湾総督府との関係について簡単にご紹介いたします。

論文の第一章にて、東郷実が台湾総督府に従事するようになった経緯が述べられているのですが、当時、台湾総督府の民生局長であった後藤新平が、札幌農学校出身の新渡戸稲造を台湾総督府に迎えるために熱烈な説得を行い、招請に成功したことから、台湾総督府において札幌農学校出身者が重用されるようになっていった、とのこと。東郷実が抜擢されたのも、彼が札幌農学校出身であったことが理由で、台湾総督府に就職する札幌農学校卒業生が増えていたそうです。

後藤系は札幌農学校を、台湾の植民事業に当たらせるための人材供給地として重視していたと思われる、とのこと。

 

やはり北海道の開拓の経験が、台湾開発に生かされていたようです。

北海道の2つの「最先端機関」  その1 函館 諸術調所

一見、未開の地、辺境の地に思える幕末・明治期の北海道ですが、実は違います。

日本で最初に開港した函館、新政府の総力を挙げて開拓が行われた札幌。

この2都市には当時の「最先端」の技術・知識が集まり、実地に活かされていました。

今回は、開国直後に北海道に存在した、2つの「最先端機関」のお話しです。

 

 

 

1854年3月31日、「日米和親条約」が締結。鎖国体制下にあった日本は、ついに開国しました。

そして最初の開港地に選ばれたのが函館と下田。
これ以降、函館にはイギリスやロシアなど、様々な異国人が集まるようになります。

彼らは西洋の先進的な技術、知識を持っていました。つまり当時の函館には、日本のどこよりも最先端の知識・技術が集積していたのでした。

そこで幕府は箱館奉行に、箱館に来航した外国人から技術・知識を学び、蝦夷地開拓や先進的な人材の育成を行う事ための学問所である「諸術調所」の設置を命じました。

そして教授には、蘭学者にして博識の誉れ高い武田斐三郎が就任します。

武田斐三郎は当時、「蘭学の儀は当時有数比類なく、且漢学にも長じ、志気慷慨、天稟非常の才器」とされていたほどの才人。若いころに多くの人材を輩出した緒方洪庵や佐久間象山の下で学び、詩文などの文才を心得、医学も修め、オランダ語、英語、フランス語に精通していました。その才を認められ、後に機械製造、弾薬製造を学び、艦船の製造、砲台の築造法を会得したばかりか、器具製造、金属分析術にもその才を伸ばすほどの「異才」の人でした。

まさに明治時代の天才!後には五稜郭の設計を担当し、新政府の科学技術の第一人者となるのですが、なんでか現代ではマイナーな扱い。

ともかく、武田斐三郎は、この諸術調所の科目を一人で担当することになったのでした。

 

これと同時期、幕府は江戸に蕃書調所(後の東京大学)を開設し、洋学の研究を開始していたのですが、この蕃書調所が語学、数学、画学などの理論を重視していたのに対し、函館の諸術調所では測量、航海、造船、砲術、築城、科学、蘭学など、実践的な知識・技術の研究・習得をメインとしていました。

この諸術調所に対し、外野では「実用に適さないのでは?」と揶揄する者もありました。

教授の武田はその声を聞くや、諸術調所での研究が実践的であることを証明すべく、門下生、学生を率いて2度の航海を決行。特に2度目の亀田丸による航海ではロシア領のニコライエフスクに寄港して実際に交易し、さらには諸術調所で学んだ技術を生かして中国東北部の黒竜江省の精密な測量を行い、天文、地理や測量術、その他の西洋の先進的な器具の製造法を生徒たちに見学させ、十分すぎる成果と共に箱館に寄港。実践結果を示すことで外野のヤジを封じました。

また文久2年(1862年)には幕府が招請した2人のアメリカの地質学者から治金法や採鉱法などを学び、生徒も二人のアメリカ人の講義を受けました。

 

当時の日本ではこのような先進的な航海術が学べるところは箱館と長崎以外には存在せず、また異国の学問・技術を、異国人から学べる少ない場所、ということで、諸術調所には入所希望者が殺到しました。

また諸術調所の入所は、幕士、藩士を問わず、公私貴賤の別なく人物本位、試験重視の能力本位としたため、本州各地から幅広い人材が集まりました。

 

榎本武揚、前島密(日本の郵便制度の生みの親)、井上勝(日本の鉄道の創設者)、吉原重俊(日本銀行総裁)など、新時代を担う人材を次々に輩出します。また後に同志社大学を創設することになる新島襄も諸術調所への入所を希望しますが、織り悪く武田が不在であったため、入所は敵いませんでした。

 

 

このように当時の日本の「最先端」研究教育機関であった箱館の諸術調所ですが、1864年に武田が幕命により江戸の蕃書調所の教授となった後は自然消滅してしまいました。

 

当時の箱館は、日本で最も先進的な場所であったのでした。