審美歯科

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網走監獄

「網走刑務所」と言えば、全国的には高倉健さんの名前が挙げられると思います。

高倉健さんの「網走番外地シリーズ」のおかげで網走の知名度は急上昇しました。

任侠映画の世界では「仁義なき戦い」の広島と並ぶ「メッカ」とも言える網走。

その網走刑務所も、開国直後の日本の対外政策として建設されました。

今回は、網走刑務所誕生の様子をお話しいたします。

 

 

 

 

これまでお話ししてきたとおり、北海道は徳川幕府の末期からロシアの進出の対象とされていました。

この段階でロシアはサハリンはもとより、すでにカムチャッカ半島にまでその圏域を広げていました。当然、北海道が次に視野に入っていました。

幕末から幕府もロシアの脅威を認識し、北海道の領有を本格化させます。

そして戊辰戦争の勝利によって幕府に変わった新政府も、同じ認識を持ちます。

開国はしたものの、日本の四方から欧米列強が迫っていたのでした。

しかし新政府の統治も、その初期の段階では混乱の繰り返しでした。

新政府に不満のある士族の反乱が相次ぎ、前回、お話しした、札幌の建設に大きく貢献した旧佐賀藩士・島義勇も佐賀の乱に加担。それ以外にも秋月の乱、萩の乱など、治安を揺るがす反乱が頻発します。

そして1877年には西郷隆盛が反乱を起こし、西南戦争が勃発。

これらの士族の反乱は、全て鎮圧されます。

 

そうして新政府の体制が強固になる一方、一連の乱によって反乱側に属して逮捕された士族や征韓論にまつわる政治犯が急増。新政府はその収容に苦慮し、当時の刑務所は全国的に収容人数が過剰な状態となってしまいました。

 

これら逮捕された「反乱兵」や政治犯をどうするか? 新政府は新たな問題を抱えてしまいます。

 

そして北海道に注目が集まります。

すでにロシアの脅威にさらされ、開発が急務だった北海道ですが、労働力が不足していました。

そこで新政府は北海道各地に集治監を設置して、過剰な囚人を移送し北海道の防衛と開発に使役しようと計画しました。そして刑期を全うした後、彼らが北海道に住み続ければ、北海道の人口増加策にもなる、と考えていました。

その計画の下、明治14年、石狩の月形町に樺戸集治監が、明治15年、空知の三笠に空知集治監が、明治18年、根室地方の標茶町に釧路集治監が建設されます。

そして明治23年、釧路集治監の分監として網走囚徒外役所が建設されます。当時の網走は人口600人の漁村だったそうです。
このように、明治期の北海道内の監獄、網走監獄は、殺人などの凶悪な犯罪などを行った囚人が収監されたわけではなく、当時の歴史的背景によって「反乱側」とされた人たちが主に収監されていました。

 

網走監獄の囚人が使役された工事として地元で有名なのは、中央道路開削工事、です。小学生の頃の授業でならったような。

中央道路とは道央とオホーツク地方を結ぶ道路のこと。この「中央道路」は当初、十勝、釧路を結ぶルートとされていましたが、ロシアに対する国防が優先され、北見、網走、釧路へと至るルートに変更されました。

網走から北見峠へと通じる「中央道路」の建設は、非常に過酷なものとなりました。

札幌から旭川まではたいした地形もなく、現在では高速も片側2車線で結ばれています。

ところが旭川から稚内などの道北地方やオホーツク地方に行こうとすると、険しい自然の地形に阻まれます。

なんせ大雪山が鎮座しているところを横切ることになるので。

北見峠には現在、国道333号がとおっていますが、かなり大変な道です。
もちろん現代的に綺麗でしっかりした国道になっているのですが、かなりカーブが多い。そして高低差もあります。北海道の峠の中でも険しい部類。疲れてしまいます。

で、この現代でも険しい峠道を、なんと一年間で造ってしまいました!

ええ、現代でも不可能な時間です。

この工事のために網走監獄の囚人は昼夜を問わず駆り出されました。

網走付近には湿地帯もありますし、オホーツク地方は釧路の根釧台地、十勝の十勝平野と違って大地の起伏も激しく、厳しい自然条件で工事が強行されます。途中では熊も出没する事態に。

脱走する囚人もおり、囚人たちは2人組となって足首に鉄の鎖がはめられました。また脱走した者はすぐに看守によって斬首となり、逃げおおせたとしても深い森の中ではどうすることもできず、死を待つしかありませんでした。

そして工事現場が大雪山の険しい地形の中になるにつれて食糧の補給も困窮し、栄養失調により死亡する囚人が続出。また、厳寒の冬季でも労働に駆り出されたとのこと。オホーツクの冬は、本当に寒いです。マイナス20度当たり前。

この時の労働状況から「タコ部屋労働」という、悪名高き労働形態が完成した、とのこと。

このタコ部屋労働ですが、労働者への体罰、リンチも行われていた、とのこと。なんせ誰もいない、山中の労働現場のこと、無法地帯と化していたそうです。

過酷な労働や栄養失調で亡くなった囚人は、その場で埋葬され、埋葬地には足首につけられていた鎖が置かれました。人々はいつしかそれを「鎖塚」と呼ぶようになりました。

ちなみにこの「鎖塚」は、地元の近くにあります。心霊スポットとして有名です。中学の頃にギボ愛子さんが来て「囚人が苦しいと言っている」と発言していました。

 

脱線ついでにお話しすると、北海道最強ランクの心霊スポットである「常紋トンネル」も、網走監獄の囚人の使役こそなかったものの、タコ部屋労働は変わらず。そして倒れた労働者は体罰を受けた後に、現場近くで埋葬された、とのこと。1970年台にトンネルの補修工事が行われた際、壁面から60センチほど地中にて頭部に損傷のある人骨の頭部が発見されました。

 

 

とにかく、人語を超えた過酷な労働によって、中央道路は完成しました。

 

また網走監獄の囚人は他にも、空港や鉄道、公共施設の建設に使役されます。

当時の網走監獄は、まるで行政を担う場所のようであったそうで、監獄の責任者が地域の行政長官であった、といっても過言ではありません。土木を行う労働力と予算を握っていたそうです。

 

 

ただ、これらの工事によって人権問題が叫ばれるようになり、1894年に、網走監獄を含む囚人の使役が終了することとなりました。

 

日本政府がロシアへの切迫した脅威に対して威信をかけて計画し、多くの囚人たちの命のもとに完成した「中央道路」はその後の昭和の時代に至っても大動脈として活用されます。しかし10年ほど前に北見峠の難所を無視して山中をまっすぐ貫通する高速道路が完成。それと同時に「中央道路」の交通量も大きく減りました。

 

 

網走監獄は北海道開拓において重要な役割を担っただけではなく、開国間もない日本の欧米列強に対する外交方針を体現しています。

☆旭川関連★「北京」建設計画とは?

北海道の開拓のお話が出たついでに、旭川と網走についてもお話しします。

不凍港、太平洋への玄関を求めて南下するロシア。

迫りくる欧米列強の脅威に対し、新政府はどのように対峙したか。

北海道各地の開拓に関する場所を見ると、知ることができます。

開国間もない日本の緊張状態を体感しましょう!!

 

 

 

日本の首都は東京。東の京、と書きます。これは、幕末まで天皇が過ごしていた京都から東に位置していることに由来しているのはみなさんご存知。当時、東京を「東の京」、京都を「西の京」、奈良を「南の京」としていました。そして、残る「北の京」の建設計画が、北海道にて企画されていました。
なぜ、そのような国家プロジェクトが、北海道にて計画されたのでしょうか?

時は明治時代。
明治政府は、旭川に離宮、すなわち皇室の居所を設け、そして、旭川を「北京」として整備することを決定しました。

当時、立憲君主国として法治国家の歩みを始めたばかりの日本ではありますが、皇室の居所は最重要地を意味していました。また、長い日本史に置いて、天皇が京都から東京に居所をうつしただけでも前代未聞の出来事。その上に最果ての地に居所を設ける、というのは、異例とも言えます。

なぜ、旭川がそのような重要地に選ばれたのか。

開国したものの、当時の日本は欧米列強の脅威にさらされていました。お隣の大国、清王朝は列強に浸食され、東南アジアも次々と植民地に組み込まれている情勢。 日本の独立は、風前のともし火にすぎません。
そして、列強の一角、帝政ロシアが南下をはじめていました。日本は周辺地域にてロシアと利害が対立。当時、ロシアを仮想敵国として警戒していました。
そのような中で本格化するロシアの極東地域での領土拡大の動き。
当時、北海道は正式に日本領に組み込まれてから日が浅く、植民地主義が支配する国際情勢の下では、必ずしも日本の領土という国際的認識が確立されているわけではありません。

そのため、明治政府は旭川に離宮を設け、天皇が在住する「北京」とすることで、北海道の日本領有を世界に宣言しようとしました。確かにかなり直接的なアピールになります。

その時、皇室御料地として接収されたのが、今の東神楽町と旭川市の西神楽地区を合わせた地域。地図で確認してみていただくとわかりますが、かなり広大な土地が皇室御料地として用意されたのでした。

そして、その御料地を守護するかのように、その北側にすべての機能を兼ね備えた、国内でも大規模な基地を設けました。

旭川市は自衛隊の町でもあります。人口比率でも自衛隊関係の仕事に従事する人が多く、歯科助手さんでも予備自衛官をされている方がいるなど、生活のそばに自衛隊の存在がうかがえます。現在でも旭川には大きな自衛隊基地がありますが、建設当時はこの数倍の敷地面積だったとのこと。

市内を流れる石狩川には、旭川の象徴ともいえる「旭橋」が架かっています。鋼鉄でできたその姿は、頑丈そのもの。太い鋼鉄が曲げられ、整然とボルトが打ち据えられている様は、スチームパンクアニメの世界観を連想させます。
この旭橋は、戦車が通ることを想定して建設されました。旭川はまさに「軍事都市」として整備されたのでした。

旭川の場所を地図で確認してみましょう。確かに北海道の中央に位置しています。稚内や留萌、札幌、網走、帯広から等距離の場所にあります。
ちなみに、日高山脈を横断する石勝線はまだ開通していなかったため(石狩と十勝を結ぶ新狩勝トンネルは、1966年開通)、根室、釧路、帯広から札幌へ向かうには旭川を経由する必要があり、当時の旭川は北海道の交通の要所でもありました。

その後、皇太子(後の大正天皇)が離宮予定地を視察するなど、計画は進められたものの、政府の財政難や、中心都市の地位を旭川に奪われることを危惧した札幌の要人による反対などのため、「北京」計画は白紙撤回されます。

そして、接収された土地は民間に払い下げられました。その後、この地域には皇室に縁のある地名が付けられ、今でもその名残を見ることができます。(「御料」などの名前が散見される)

もし、この「北京」計画が実現していれば、今頃、北海道の中心都市は旭川となって、北海道の重心も北に移動していたことでしょう。
今度、旭川を訪れた際には、かつての国家プロジェクト跡を訪れてみてください。離宮が計画された場所は、今は上川神社となっています。

今回は、旭川に住んでいた時に見た公共の刊行物などを参考にしました。

☆函館関連★ ペルリ提督、函館に上陸す! (最終回) その7 提督のその後

1855年5月8日、箱館を後にしたペリー提督のアメリカ・東インド艦隊は、再び下田へと向かいます。

そして6月17日に、和親条約の細部を決定する「下田条約」を締結。

これにて日本での任務を終え、出発しました。

この時の日本での滞在日数は130日以上。

この後、琉球に立ち寄って琉球をも通商条約を締結。

アメリカ帰国後、後に一級の歴史資料となる「日本遠征記」を報告。

アメリカにとっても大役を果たしたにも関わらず、アルコール依存症、痛風、リュウマチを発症。

日本から帰国して、わずか4年後に亡くなりました。64歳。

この後、アメリカは南北戦争に突入。国内事情のために、国際的な「植民地獲得競争」に出遅れてしまい、せっかくペリーが日本に築いた「アジアへの橋頭保」の下田、函館を、さらなるアジア植民地拡大のステップとして利用することができないばかりか、むしろ外国文化に目覚めた日本がイギリス、フランス、ロシアと関係を強めるきっかけとなってしまいました。

ペリーが松前勘解由を相手に権限を確保しようとした函館にはその後、アメリカではなくイギリスが領事館を開設。ロシアが最も熱心に進出し、領事館はもとより、ハリストス正教会などを建設。函館は「アメリカだけの開港地」ではなく、国際色豊かな港町として発展していきます。

歴史に「もし」は禁物ですが、このペリーの函館来航、だけでも多くの「もし」が想像できます。

もし、松前勘解由がペリーの要求をそのまま認めていたら?もし、日本を開国させたのちにアメリカで南北戦争が起こっていなかったら?

 

昭和20年(1945年)9月2日。

東京湾に停泊する米国艦ミズーリ船上にて、日本の降伏文書の調印式が行われました。

この調印式は、ある旗の前で行われました。

それは、ペリー提督が箱館に来訪した際に乗船していた旗艦「ポーハタン号」に掲げられていたアメリカ国旗。

日本を2度、訪れることになった星条旗は、箱館のことを覚えていたのでしょうか?

☆函館関連★ ペルリ提督、函館に上陸す! その6 ペリー、函館を去る

4月26日の会見にて、「交渉拒否」を貫いた松前勘解由でしたが、実際にはその判断にかなり苦心していたようです。

ちょうどそのころ、蝦夷地見聞のために、幕府の直臣である目付・堀利熙、勘定吟味役・村垣範正が、津軽海峡を挟んだ対岸の津軽・三厨まで視察に訪れていたのを知り、使者を派遣して見解を求めました。

堀、村垣らの任務はあくまでも蝦夷地の見聞であり、条約に関することは一切関知していなかったのですが、事の重大さを鑑みて松前藩の要請に応じ、同行していた部下の中から支配勘定・安間純之進、徒目付・平山謙次郎、勘定吟味方下役・吉見健之丞、小人目付・吉岡元平、蘭学者・武田斐三郎らを箱館に派遣します。

彼らは5月5日に箱館に到着。ペリー提督と会談します。

その際、アメリカ側の書面を受け取り、翌日の返答を約束して会談を終了。

その後、松前藩からの事情も聞き取ったうえで、アメリカ側に返答を届けます。

その返答ですが、箱館港に関する細かな取り決めは、後日、下田にて林大学頭(ペリーとの交渉の際、幕府側の中心となった人物。条約締結に関して大きな決定権が与えられていた模様)と協議するべきである、として「地方政府」である松前藩と交渉するのは筋道が違うことを正した上で、箱館訪問は単なる視察であるとした神奈川滞在時のアメリカ側自身の言明を前面に押し出し、アメリカ側が松前に対し新たに要求するのは不当である、とアメリカ側の姿勢を非難しました。
ペリー提督も、相手が幕臣であることを認識しており、この返答を「幕府の見解」と受け取らざるを得ませんでした。

この時点でペリーが企図した箱館での条約外の権利の確立の道は、絶たれたといえます。

繰り返しますが、もしこの時、「黒船」に威圧されて松前側がアメリカの要求を唯々諾々と受け入れてしまっていたら、箱館、すなわち函館のその後の性格も変わっていたかもしれません。清王朝における香港やマカオのように。

なお、この時に箱館に派遣された蘭学者の武田斐三郎ですが、若いころ、大阪の緒方洪庵に師事して蘭学を学び、その後、佐久間象山のもとで砲学、兵学を学びました。そして27歳の時に浦賀沖にアメリカ艦隊が出現した後、かの吉田松陰とともに浦賀にて「黒船」を目撃し、その様子を「三浦見聞記」に記しています。その後、幕府に才能を認められ、長崎にてロシアのプチャーチンとの会談にも携わり「通詞御用」(通訳)を拝命。交渉の後に幕府から今回の蝦夷地・樺太巡察を命じられていたのでした。
そのため、ある意味、ペリーと「会見」した2度目になるのかもしれません。
浦賀沖にて驚愕した黒船の司令官と、1年後に自分自身が交渉することになるとは。ある意味、感慨深いものがあったのかもしれません。
もう少し武田斐三郎について脱線いたしますと、ペリーとの交渉後、樺太などの巡察の任に戻り、その後、箱館奉行所が設置されると箱館詰めを申し渡されます。箱館では砲学、兵学の知識を買われて弁天台場(大砲の設置)の開設、そしてあの「五稜郭」の設計・建設に携わりました。
さらに「諸術調所」が開設されると教授役に任命され、榎本武揚、前島密ら、明治維新において重要な働きをした人物たちを指導しています。
他にも溶鉱炉を作ったり、ロシアの黒竜江まで交易を兼ねた旅行に行くなど、当時の日本においての随一の「グローバル派」でした。
この箱館での功績が認められて幕府より江戸出仕を命じられ、江戸開成所の教授役や、大砲製造所頭取に任じられるなど、当時の日本の「最先端」分野にて活躍。
新政府に参加した後には日本軍の近代兵制、運用、装備などを含めた明治の科学技術分野の第一人者として認められます。

またプチャーチン、ペリーとの交渉経験を買われて外交折衝にも起用され、フランス軍事顧問団との厳しい交渉も成し遂げ、明治8年(1875年)に陸軍士官学校を開設します。しかしこの時の心労が過大であったため、1880年に亡くなりました。

まさに明治時代以降の近代日本を築いた重要人物。なんとなくマイナーな扱いがされてしまいがちですが、その重要人物も若いころ、箱館にてアメリカとの交渉という厳しい現場を経験していました。

 

お話が逸れに逸れてしまいましたが、ペリーはこの回答を持って、これ以上の要求をあきらめます。

しかしこの回答が出たとき、すでに必要な測量を終え、下田での再交渉の日程が迫っていたこともあり、箱館滞在の終了を決定。

1854年5月8日、抜錨して箱館港を後にしました。

 

「箱館は素晴らしい良港である」という感想とともに。