



審美歯科
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☆2014夏の鉄道★道央一周の旅 その11 竹鶴政孝とリタ
さて、工場内の見学もしてみましょう。
いろんな道具や歴代の広告が展示されてました。
そしてこの一角へ。
創設者である竹鶴政孝と、妻のリタに関するコーナー。
こちらは竹鶴政孝。
こちらが妻のリタ。リタは通称のようです。生名はジェシー・ロバータ・カウン。
1894年、広島県の製塩業・酒造業を営む家庭の3男として生まれた竹鶴政孝は、大阪工業高校の醸造科にすすみ、大阪の酒造会社に就職します。
その後、1918年に日本でのウイスキー製造のためにイギリスにわたり、グラスゴー大学にて有機化学と応用化学を学びます。そしてウイスキー醸造場に研修に通っていたそうです。
そしてグラスゴー大学に在学中に知り合った医学部の女性、エラに、彼女の弟ラムゼイに柔道を教えてくれるよう頼まれます。
そしてその縁で、姉のリタと知り合います。
二人の仲は深まり、竹鶴政孝は結婚を意識するようになります。
以下は、あるサイトにあった、プロポーズの場面。ちょっとドラマのような言い回しかもしれませんけど、いくつかのサイトを見ても、大筋、同じでした。微妙に表現は違っていたけど。
「竹鶴はリタとの結婚を夢見るようになり、ついにリタに自分の気持ちを打ち明ける。
「あなたにその意志がなければ、はっきりおっしゃってください。…もしも、…もしあなたが望まれるのなら、わたしは日本に帰るのを断念してこの国に留まり、職を探してもいいと考えています」
これに対してリタが返した言葉は、竹鶴にとって生涯忘れられない言葉となり深く胸に刻まれた。
「わたしたちは…スコットランドに留まるべきではありません。日本へ向かうべきだと思います」。
リタはさらに言葉を重ねる。
「マサタカさんは、大きな夢に生きていらっしゃる。その夢は日本で本当のウイスキーをつくること。私もその夢を共に生き、お手伝いしたいのです。」
以前、イサム・ノグチの両親の出会いと、イサムの誕生について触れましたが(そういえばまだ途中でした。今度、続きます)、正直、混乱する関係でした。
しかし、竹鶴政孝とリタとの仲は、本当に良かったようです。
彼らは、お互い異国人、異人種同士ということもあり、イギリス、日本、双方で偏見に苦しんだようです。特にリタは、北海道に移ったのち、スパイを疑われて本州への移動を禁じられたり、ホテルの室内を調べられたり、などもされた、とのこと。
それでも彼女は、なんと関西弁を操るまでに日本になじんでいた、とか。
資料室には、竹鶴政孝とリタについて、再現されていました。
カウン家でのクリスマスプディングにまつわるエピソード。
イギリスでは、クリスマスのプディングは伝統のようです。日本でのおせち料理のようなものだそうです。
そして、この時にコインや指貫など、色々なものを混ぜ込むことで「フォーチューン占い」となるそうです。
映画「ハリーポッターと賢者の石」にもその描写がある、とのこと。
そして上記の画面の案内によると、
「政孝とリタ夫人の運命を決めた場といわれる、カウン家(リタ夫人の生家)のクリスマスシーンをアンティーク家具などを使って再現したのが”クリスマスのプディング占い”。
プディングの中に入っているのは6ペンス銀貨と指貫。未婚の男女に銀貨と指貫が入っていると「2人は将来結ばれる」。
政孝のプディングには銀貨が、リタのほうには指貫が。言い伝えのとおり2人は結ばれ、琥珀色の夢を紡いでいくのだった。」」
こちらはリタが使用していた、というメガネ。
1934年に竹鶴政孝は余市に蒸留所を開設したものの、当初は経営に苦しみ、最初のウイスキーが完成するまでは果物ジュースを生産するなどして存続させていたそうです。その間もリタは献身的に夫を支えていた、とのこと。
苦労の甲斐あってか、最初のウイスキー出荷後、経営は安定、拡大し、二人は成功を手に入れます。
その後、リタは肝臓や肺を病んでしまいます。
彼女はその時、会社が大きくなり東京滞在の増えていた政孝がよく滞在していた神奈川・逗子にて過ごすようになっていましたが、自身の何かを悟ったのか、1960年秋、二人の創業の地である余市に帰ることを強く希望。
彼女は余市をとても愛していたそうで、リタの親族の遺産を受け取ると、それを元に「故郷」である余市にリタ保育園を開設します。リタ保育園は今でも「リタ幼稚園」として存続しています。
そして1961年1月17日、思い出深い余市にて亡くなりました。日本に渡ってから40年近い年月が経っていたそうです。
竹鶴政孝はその18年後の1979年に亡くなりました。
*2021年追記
この二人のお話は、2014年にNHKの朝ドラ「マッサン」として放送されました。