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足利への小旅行 その6 渡良瀬橋

さて、史跡めぐりを紹介し、歴史知識のひけらかしにもお付き合いいただきました。

 

これで大満足し、じゃあ帰るか、と思ったところ、案内地図に「渡良瀬橋」とあるのが目に留まりました。

 

なんか聞いたことあるなあ、ああ!あの高校時代には流行った歌か!

 

皆さん、ご存知ですか?森高千里さんの「渡良瀬橋」という歌を。

加納と同じ世代のお父さん、お母さんなら、ちょうど中学、高校、大学の青春時代に流行っていたので、覚えている方も多いと思います。

 

え?もしかしてあの「渡良瀬橋」なの?

 

とスマホで調べてみたところ、森高千里さんの「渡良瀬橋」は、まさに足利市の渡良瀬川にかかる橋の一つ「渡良瀬橋」をモデルにいた歌なんだそうです。

おお、偶然とはいえ、スゴイぞ!せっかくだから、行ってみよう!と考えました。

 

 

 

 

 

 

 

    

東武鉄道の足利市駅から歩いてすぐのところに、渡良瀬川があります。

ご覧のように渡良瀬川は川幅のとても大きな川でした。なお、写真に写っているのは渡良瀬橋ではありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

   

これが渡良瀬川です。なお、渡良瀬橋からの眺望ではありません。

撮影したのは早朝で、水面に映っているのは夕日ではなく朝陽です。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

そしてこれが渡良瀬橋です。

え?わかりにくいって?

 

 

 

 

 

 

 

  

こちら。銀色に輝くトラス橋こそ、あの有名な渡良瀬橋。

 

 

 

 

 

 

    

どうですか?皆さんの想像していた渡良瀬橋と似ていますか?

なんか、特別な橋、というわけでもなく、至って普通の橋、ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

せっかくなので、渡良瀬橋に行ってみましょう!!

 

 

 

 

 

 

 

だいぶ近づいてきました。朝日を浴びて輝いているようにも見えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

これが渡良瀬橋です。

森高千里さんが「渡良瀬橋」を作詞する前まで、渡良瀬橋と言う橋があることを知らなかった、とのこと。

新曲では橋をテーマにしたい、と考え、地図帳で語感のいい地名を探したところ「渡良瀬川」という名前が目に付き、そして「渡良瀬橋」という橋があることを知ったそうです。

その後、実際に渡良瀬橋を訪ねて、イメージを膨らませたとのこと。

その訪問の際に、渡良瀬橋から見えた夕日がとても綺麗で、ぜひ詩にしたい、と考えたそうです。

 

 

 

 

 

 

 

  

なお、渡良瀬橋は自動車専用で、その隣の歩行者専用橋から見ることができます。

 

 

 

 

 

 

 

 

歌詞の中で「渡良瀬川の河原に降りて」というくだりがありますが、あれは実際に森高千里さんがこの河原に降りた時に、風があまりにも冷たくて風邪をひきそうだ、と感じたことをそのまま歌詞にしたそうです。

 

渡良瀬橋が発表された時、自分は高校三年生でした。あの年代だからかもしれないですが、毎日、歌を聞いていました。と言ってもヒット曲ばっかり。Bzやチャゲ&飛鳥、ミスターチルドレンなんかです。楽器を弾けないどころか楽譜だってわからないくせに、音楽批評めいたことを語っていたように思います。特にチャゲアスの大ファンでした。あの時はまだ、スマップがブレイクする直前で、「自分で作詞作曲する人」の方がアイドルよりも格上だ、という、おかしな風潮がまだありました。「シンガーソングライター」が「アーティスト」と呼ばれるようになったのもこのころ。

そんな中で森高千里さんは、どちらかというとアイドルという存在です。

失礼ながらも高校三年生当時の自分が持っていた森高千里さんの当時のイメージは、「バブルのイケイケお姉さん」というもの。

いや、本当に失礼なんだけど、歌もコミックソングのように聞こえたし、あの派手目な衣装と、そしてミニスカートですよ。

正にバブルじゃないですか。

 

その「お姉さん」が、いきなり良い感じの曲を発表したじゃないか!

 

ただそこはまだまだ愚かな高校生。詩の内容を理解するよりも、その曲の感じの方が印象に残っていました。カラオケの大ブームのときで、みんな、カラオケでいかに格好よく歌うか、を目標に「サビで格好つけることができる曲」をチョイスして練習していました。

そのため「曲の3分の2はサビ」、「残りはすべてサビの繰り返し」という曲まで登場していました。いえ、T-BOLANのことじゃないですよ!

渡良瀬橋も、最初はそんな「カラオケソング」の一つのような感じで、その曲調が記憶に残っていました。

 

それから時間が経って、次々と新しいヒット曲が発表され、コムロ系が登場し、ヒップホップやAKBなどのアイドルの時代となりますが、自分はいつの間にか関心を失くしていました。

渡良瀬橋を聞く機会も少なくなっていました。

 

今回、たまたま渡良瀬橋を見つけたので久しぶりに「渡良瀬橋」を聞いてみたんですが、曲もいいですが、歌詞がとてもいい!!

本当は切ない内容の歌詞なのに重くなく、寂しいながらも明るい。

こんなにいい曲だったんだ、と改めて実感しました。発表されたのが1993年ですから、26年ぶりの再発見、でしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これが渡良瀬橋からの眺め。

大きな川に遠くに見える山々、ポツンと見えるビルや家屋。

何の変哲もない、日本のどこにでもありそうな地方都市の風景です。

でも、なぜか懐かしいものも感じさせます。

 

実際、帰宅後に渡良瀬橋の曲について調べてみたところ、「懐かしい」という感想を多く目にしました。

そう、今、「渡良瀬橋」を聞くと、なんだか懐かしいような、安心するような感じがします。

 

歌詞の中に「八雲神社」が登場しますが、足利市内には多くの八雲神社があるそうです。森高さんはたくさんあることを知らなかったそうです。というか、別にどこの神社でもよかった、聞いている人の近所の神社でもよかったそうです。

皆さんの記憶にも、若いころを過ごした土地の風景や神社の建物があると思います。

 

通院していただいているご家族で、この春から道東にお引越しされる方がおられます。

道東に長く生息していた自分は、それを聞くと同時に「道東は寒いっすよ」「娯楽なんて何にもないですよ」「札幌から遠くて寂しいですよ」などと、ネガティブなことを得意げにまくしたてました。大人なら札幌から道東へ引っ越しとなると「あ~あ」となるのが偽らざる気持ちだと思います。

でも、一緒に引っ越す小さいお子さんたちにとっては違います。

道東の地方都市で新しい友達ができ、好きな異性もできるわけです。友達と遊んだこと、好きな子と一緒に帰った日、などの思い出の場面は、常に道東の田舎の景色を背景にして記憶されることになります。

その時に見た風景は彼ら彼女らにとって永遠となる、唯一無二の記憶として、生涯、胸に刻まれることになります。この記憶の風景は絶対的で、世界中のどんなにすばらしい景色を見ても、勝ることはできません。また、彼らの生涯に渡って励ましてくれることにもなります。

「あの頃」の風景に、田舎かどうか、なんて関係がないですよね。皆さんも、かけがえのない風景の記憶があると思います。

 

これは日本に一つしかない渡良瀬橋を歌っている曲ではありますが、でもそれは誰の記憶にも残っている景色でもあるんですね。

 

久しぶりに「渡良瀬橋」を聞いて、ネガティブなことを言ってしまったことを、結構、真剣に後悔してしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

もう一度、渡良瀬川の眺めを。できれば「渡良瀬橋」を聞いてみましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

久しぶりに聞いても、森高さんの「渡良瀬橋」は、歌詞も曲も全く色あせていないどころか、むしろ瑞々しさを増しているように思います。

 

「渡良瀬橋」は紛れもない、「平成時代」を代表する名曲の一つです。

 

残りわずかとなった平成の終わりに、この渡良瀬橋に来ることができて、本当によかったです。

 

新しい時代でも、ぜひ、歌い継がれていってほしい。

 

北海道から遠く離れた渡良瀬橋で、なぜか懐かしさを感じつつ、渡良瀬川を後にしました。

 

 

 

 

 

 

 

足利市駅から見える渡良瀬橋。

曲に出てくる男性も、電車でやってきたとか。

 

 

最後に足利駅で流れる発車メロディーをご紹介して、この記事を終わります。(JR足利駅の方です)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

追記

 

これにて、加納が行なった足利市への小旅行のご報告は終わりになります。

重大な史跡を巡ったり、歌の舞台で感慨にふけったり、様々なことを楽しむ事ができました。

北海道から行くのは大変ではありますが、行くだけの価値がありますよ!

できれば平成の内にいってみよう!!

足利への小旅行 その5 足利市と足利尊氏

さて、鑁阿寺に向かっている途中で、あるものが目に留まりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

こちら。だれだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

   

なんと室町幕府を開いた足利尊氏でした。

 

 

 

 

・・・・・・・・・でも、実は足利尊氏は、どうやら生涯で一度も足利庄を訪ねたことが無かったそうなんです。

 

というのも尊氏は丹波国で生まれた以降は、鎌倉の足利邸で生活していたらしく、一度も足利発祥の地には足を向けた形跡がないのです。父の足利貞氏までは足利庄に滞在していたようなのですが。

 

ただ、足利氏の発祥地としての足利庄の重要性は尊氏も認識していたようで、室町時代を通じて重要地として足利氏(鎌倉公方ですが)が統治していました。

 

 

一度も尋ねたことは無いけども、足利一族にとっては重要地に代わりは無いので、尊氏像がこの場所に建っていてもなんら不思議ではありません。

 

 

まあ、尊氏は生涯、根なし草みたいな生活をしていたんですけどね。

足利への小旅行 その4 足利学校

では続いて、旅のメインである足利学校に向かいましょう!

・・・・と言っても、鑁阿寺の隣にあるんですけどね。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

こちらが足利学校です。

 

 

 

 

 

 

 

  

学校の周りはお濠で囲まれています。一部ですが。鳥がたくさんいてのどかでした。

 

 

 

 

 

 

 

水もとても綺麗だったので、池の水を抜く必要は無さそう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでは入ってみましょう。

 

 

 

 

 

 

 

燦然と輝く「学校」の文字。40歳超えての「入学」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

中には様々な建物がありました。

 

 

足利学校とは、なんなのか、ですが、中世の関東における最高学府。

中心は儒学でしたが、易学も教え、また兵学や医学も盛んだったとのこと。

足利学校がいつできたのか?については定かではありません。

奈良時代である、とか、平安時代からだ、とか、先に名前が出た足利義兼が創建した、とか。

盤石になったのは室町時代に足利庄を治めることになった、関東管領・上杉憲実による書物などの寄進を受けたときから。

上杉憲実は誠実な人であったらしく、この人の生涯を見ていると、自分の忠義心に翻弄されているのがわかり、なんだか気の毒に思えます。

また、「室町幕府」と言いながらも全国支配はしておらず、東国は同じ足利氏である鎌倉公方一族により支配されていたことも、上杉憲実の人生を複雑なものにしていきます。

 

江戸時代を経た時点から歴史を見ている現代人には、江戸幕府による「幕府像」が染み付いているので、幕府と言う存在が絶対的なものに思えてしまいますが、室町幕府、鎌倉幕府と江戸幕府とでは性質が全然違います。

江戸幕府による「幕藩体制」は、おそらくそれまで世界中に見られた封建制度の、最終形態・究極の完成形、ともいえるもので、各地を領主が支配しながら、中央政府である江戸幕府の命令は絶対的、という自治と中央集権が混在した、非常に特異な形態でした。

江戸幕府以前の「幕府」は、どちらかというと有力豪族の寄り合い所帯の性質が高く、その中で勢力が一番大きい勢力が仕切っていた、と言う感じ。

特に室町幕府は連合政権の意味が強く、室町幕府自体も全国支配をしておらず、東日本は鎌倉に滞在した足利氏の統治が行われていました。実質で気には、西日本と東日本では別の勢力があった、と言えます。形式的には同じ足利氏なので一つの政府、という体ではありましたが。

 

 

脱線しましたが、この上杉憲実の時代に足利学校は隆盛を誇り、戦国時代に日本を訪れたフランシスコ・ザビエルも「日本最大のアカデミー」としるしております。

でもザビエルが実際に足利学校を訪れたのかは不明。なんせこの人は、未知のものでもまるで自分で見たかのよう記述する癖があるので。

 

 

ともかく、足利学校は室町時代、戦国時代に勢威を誇ります。兵学を教えていたことから、「卒業」した生徒が各地の戦国大名に仕えて軍事顧問になった、ということもあったとか。小説にあった「墨家」のような存在でしょうか?

その後、太平の江戸時代となってからは足利学校の存在も縮小していき、地方の学校、になっていきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらは「寮」ですね、学生たちが勉強していたそうです。なお、学校内では寝泊まりせず、近辺に下宿していたそうです。

 

 

 

 

 

 

 

うーん、なかなかせまそうでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

ではこちらの書院に行ってみましょう!

 

 

 

 

 

 

 

中は日本家屋の雰囲気でいっぱいです。

 

 

 

 

 

 

 

     

なかなか複雑な作りで面白かったです。

 

館内では論語の写経も体験できます。・・・が、この日は寒かったので、そんな辛い修業は行う気に慣れませんでした。昔の人は偉いね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なかなか興味深かった足利学校。足を運ぶ価値がありまよ。

 

 

 

足利探検は続く!

足利への小旅行 その3 鑁阿寺

今回から足利の史跡めぐりとなります。

 

 

 

 

この小路を歩いていくと・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

お寺が見えてきますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

こちらは足利氏の氏寺である、鑁阿寺(ばんな寺)です。

鑁阿寺は、鎌倉幕府成立に功績のある足利義兼によって創建されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらは桜門。

なんと戦国末期の室町将軍である足利義輝によって再建されたものだそうです。仁王像は安土桃山時代のもの。

 

 

 

 

 

 

 

境内には様々な建物があります。

 

 

 

 

 

 

 

こちらは多宝塔。足利義兼が創建したそうです。

後に江戸時代になって、5代将軍・徳川綱吉の母、桂昌院によって再建された、とのこと。

この桂昌院という人物は、寺院めぐりをしているとたびたび名前を見かけます。

もう10年くらい前になるけど、奈良を回った際に唐招提寺を訪ねたのですが、その時にも「桂昌院が寄付した」という案内文を見かけました。

桂昌院はとても信心深い人で、徳川綱吉が「生類憐みの令」を制定しますが、これも桂昌院の影響であった、と言われております。

また綱吉の時代は「元禄バブル」とも呼ばれる好景気のときで、幕府も浮かれて財布が緩みっぱなし。そのおかげで桂昌院もあっちこちのお寺に寄付できました。

まあ、その後、放漫財政が破綻して悪名高い新井白石による緊縮財政や、徳川吉宗の改革が行われることになるんですけどね。

 

 

 

 

 

 

 

こちらは一切経堂。国指定重要文化財とのこと。

 

 

 

 

 

 

 

  

そして本堂。

足利義兼によるもの。かなり大きかったです。

 

 

 

 

 

 

 

立派な庭なんかもありました。

 

 

鑁阿寺は、元々は足利氏の邸宅だった場所に建っているそうです。

ここでたびたび名前が出てきた足利義兼ですが、足利氏の後の動向に大きな影響を与えた人物です。

足利義兼が先代から足利庄を受け継いだ時は平安末期。保元の乱、平治の乱を通して、まさに武士が台頭をし始めた時。

源頼朝が挙兵する際、足利義兼はいち早く頼朝の下に馳せ参じたことで頼朝の信頼を得ることに成功。

足利氏は鎌倉時代を通じて北条氏と婚姻関係を結ぶなど、御家人筆頭に位置するのですが、それも足利義兼のこの時の行動に由来しています。

足利尊氏は「源氏長者」として注目され、後に室町幕府を設立しますが、それもこの足利義兼の行動のおかげ、と言えるかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

足利市発祥の地を見ることができて、大満足です。